神は、どんなものに対しても決して荒れ野ではなりません。神は、「悪い人たちの上にも善い人たちの上にも太陽を昇らせ」ているのですから、誰に対してもけっして乾いた地ではありません。神は、「正しい人たちの上にも正しくない人たちの上にも雨を降らせている[1]」のです。日を昇らせ、休息をもたらすために夜をお作りになる神が、どうして荒れ野なのでしょう。大地に実りを結ばせる神が、どうして荒れ野なのでしょうか。また神は、一人ひとりの人間を配慮して、魂の点では彼らが理性的で知識を持った者になるように、また彼らが自分たちの知性を鍛えるようになさっており、さらに彼らが人間の身体の点で、強靭な「感覚器官」を持つようにさせているのですから、どうして神が荒れ野なのでしょうか[2]。ですから、普遍的な観点から見ますと、神は誰に対してもけっして荒れ野ではありません。しかし特殊な観点からイスラエルの出来事に進んでみた場合、私としては次のように言いたいと思います。神がエジプトにおいて数々のしるしや不思議を行っていたときは、神は(ご自分の)民に対して荒れ野でもなければ、乾いた地でもありませんでした。ところが、民が見捨てられる時が来たとき、神ご自身は荒れ野ではありませんが、彼らに対していわば荒れ野になったのです。他方、神がイスラエルに対して荒れ野でも乾いた地でもなかったとき、特殊な観点から見ますと、神は諸国の民に対して荒れ野であり乾いた地となっていたのです。しかし神がイスラエルに背を向け、あのイスラエル[3]に対して荒れ野になり乾いた地になったとき、恵みは諸国の民に注ぎ出されたのです。こうしていまや、キリスト・イエズスは、私たちに対して荒れ野ではなく、肥沃な大地となったのです。乾いた地ではなく、実りを結ぶ大地となったのであります。なぜなら「不妊の女は、夫ある女よりも、たくさんの子どもを持つようになる[4]」からです。

そして神は、荒れ野でも乾いた地でもなかった人びとを威嚇され、こう言っておられます。私は、お前たちに対して荒れ野にも乾いた地にもならなかった。ところがお前たちが、「私たちは(あなたを)主とは仰がない。私たちはもうあなたのところには行かない[5]」と言ったのだ、と。果たしてイスラエルの子らは、このように「私たちは(あなたを)主とは仰がない」と言うことによって、その言葉どおり自暴自棄になってしまったのでしょうか<・・・>。

 

・ ・ 以下毀損 ・ ・



[1] Cf.Mt.5,45.

[2] He.5,14.

[3] オリゲネスは、文字通りのイスラエルの民と、真のイスラエルの民すなわちキリスト者とを区別して、前者を「あのイスラエル」と言っているのである。

[4] Is.54,1;Ga.4,27.

[5] Jr.2,31.

 

始めに戻る