だから「お前は行って、これらの言葉を北に知らせなさい[1]」。さて、(聖書の文字通りの)言葉が理解されたのですから、この言葉が何を示そうとしているのかを見てみることにいたしましょう。諸国の民の召し出しは、イスラエルの堕落にその起源を持っていました。使徒たちは、ユダヤの諸々の会衆に宣教しながら、彼らにの次のように言っております。「救いのみ言葉は、あなた方のために送られました。しかしあなた方は、自分たちを(それに)相応しくないものと決め付けてしまいました。そこで私たちは、諸国の民の方に向かいます[2]」と。また、使徒も、これらのことについて、自分の知っていることを語っております。すなわち、「彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされ、彼らに妬みを起こさせた[3]」と。ですから、あの民の多くの罪がその民の捨てられる原因となったのです。そしてそれによって私たちは、「救いの希望[4]」にたどり着いたのです。(そのときまで)私たちは、「契約とは無縁であり、(神の)約束とは関わりを持ちませんでした[5]」。では、いわゆる聖地とは無縁の者で、何処とも知れず生まれたこの私は、一体どのようにして、神の約束について論じることができたのでしょうか。一体どのようにしてこの私は、アブラハムとイサクそしてヤコブという(旧約の)太祖たちの神を信じることができたのでしょうか。そして私たちはどのようにして、預言者たちによって予め宣べ伝えられたイエズス・キリストを受けいれることができたのでしょうか。もしもあなたが、これらの二つの民を、すなわちイスラエルから出た民と異邦人から出た民とをご理解しようとするのであれば、どうか、イスラエルの移住がイスラエルから出た民にも当てはまるとお考えください。そしてこの(イスラエルから出た)民についてあの言葉が書かれたとお考えください。つまり、「私は彼女と離別し、彼女に離縁状を渡した[6]」という言葉です。たしかに神は、あの(イスラエルから出た)民と離別し、その民に離縁状を渡しました。それは、結婚した人たちの間に起こるのと同じようなものであります。モーセの律法の言葉によれば[7]、妻が夫にとって不愉快な女である場合には、夫によって離縁状が作られ、妻は離別さることになっていました。そして前の妻の無作法のゆえに彼女に暇を出した夫は、別の女をめとることが許されたのです。これと同じように、あの(イスラエルから出た)人たちも、離縁状を手渡されたと考えてください。彼らは、離縁状を手渡されたので、それによって完全に捨てられてしまったのです。一体彼らの間のどこに、預言者がいるのでしょう。一体彼らの間のどこに、しるしがあるのでしょう。どこに神の顕現があるのでしょう。どこに礼拝があるのでしょう そして神殿は祭壇は彼らは自分たちの場所から追い出されてしまったのであります。

こうして神は、イスラエルに離縁状を渡されました。次いで、私たちユダが    私たちは、ユダの民から出た救い主のゆえにユダなのです。たしかに「私たちの主はユダから出たのは明かなのです[8]    、主に立ち返りました。そして私たちの末路も、まだ来て欲しくないものですが、あの(ユダ族の)人たちの末路と似たようなものになるかもしれません。一層ひどい末路ではないにしても・・・。 



[1] Jr.3,12.

[2] Ac.13,26.46.

[3] Rm.11,11.

[4] Cf.1 Th.5,8.

[5] Cf.Ep.2,12.

[6] Jr.3,8.

[7] Cf.Dt.24,1.

[8] He.7,14.

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