「しかし背信のユダは恐れなかった。それどころか彼女は、さらに淫行を続けた」    先ずイスラエルが姦淫を行いました。そしてユダも後になって姦淫を行ったのです    。「そして彼女の淫行は虚しいものであった。彼女は、木や石と姦通した[1]」。私たちが罪を犯せば、私たちは石の心を持つ者となり、石と姦通を犯すことしかしなくなるのです。私たちが罪を犯し、「生い茂る木の下ならどこにでも行って[2]」姦淫にふけるなら、私たちは、木と姦通することになるのです。

「そして背信のユダは、真心から私のところに立ち返ってこなかった。彼女は、偽って立ち返った[3]」。私たちが、神に立ち返るとしても、好い加減な気持ちであれば[4]、私たちは「真心から」立ち返ったのではないと批難されることでありましょう。それで、「<背信のユダは、真心から私に、立ち返った>のではない」と(神は)言われたのです。神は、背信のユダが立ち返らず、そのままであった、とは言われません。神は、「背信のユダは、真心から私のところに、立ち返らなかった。彼女は、偽って」立ち返った、と言われたのです。

したがって真の回心とは、数々の「古事」を読むことであり、義とされた人たちを知ること、彼らを見習うこと、それら(の古事)を読むこと、批難された人たちを見ること、そのような批難に陥らないように注意すること、新しい契約の書、諸々の使徒たちの言葉を読むこと、読んだらそれらのことをすべて心のなかに書き付けること[5]、それらに従って生きることなのです。そのようにすれば、私たちに「離縁状」が渡されることはないでありましょう。そのようにすれば私たちは、聖なる嗣業地にたどり着くことができるでありましょう。<そして>諸国のすべての民が救われた後で、イスラエルは(その嗣業地に)入ることができるでありましょう。「実際、すべての異邦人が(聖なる嗣業地)入れば、全イスラエルは救われることになるのです[6]」。「こうして、一つの羊の群れが出来上がり、一人の羊飼いが」私たちに、すべてを支配する全能の神に[7]、キリスト・イエスご自身であるその方において、栄光を帰すように教えてくださるのであります。キリスト・イエスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン。



[1] Jr.3,8-9.

[2] Jr.3,6.

[3] Jr.3,10.

[4] e,llipw/j

[5] Cf.Platon, Phèdre 276 a et 278 a.

[6] Cf.Rm.11,25-26.

[7] to.n pantokra,tora qeo.n

 

 

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