第5講話

 

子どもたちよ、立ち返りなさい。立ち返れば、私はお前たちの傷を癒すから、それゆえお前たちは、粗布を身にまとえまで

 


 

 

 

  『使徒たちの宣教』のなかには、使徒たちが先ず、ユダヤ人たちの会堂に入り[1]、アブラハム、イサク、ヤコブを先祖とする同族としての彼らに[2]、イエズス・キリストの到来に関する聖書のみ言葉を告げ知らせたとはっきり書かれています[3]。しかし彼らは、言われたことを受け入れなかったので、言われたことを聴く聴き手は、別の人たちにならざるをえませんでした。そのとき使徒たちは、彼らに対して弁明し、彼らを見捨てました。こう書かれております。「神のみ言葉は、先ず、あなた方に告げられなければなりませんでした。ところがあなた方は(それを拒み)、自分たちを(永遠の命を受けるに)値しない者と決め付けています。見なさい、私たちは、異邦人の方に向かいます[4]」と。ところで『使徒たちの宣教』のなかで明瞭に言われたこれらのことは、預言者の(書の)多くの個所でも潜在的に[5]言われていたことなのです。聖霊は、預言者たちをとおして、何よりも先ず、あの(イスラエルの)民の子孫たちに話し掛けたました。しかしそのとき聖霊が多くのことを語ったのに、彼らは話しを聞きませんでした[6]。それで聖霊は、宣教の言葉を[7]異邦の人たちに預言することにしたのです。

このことはまた、本日の朗読の初めでも行われました。それは、同じ個所の前のところで、イスラエルの末裔に対してこう書かれていおります。「『お前が、私を父と呼ぶなら、私から離れることはあるまい。しかし女がその伴侶を顧みなかったように、イスラエルの家は私を捨てた』と、主は言われる[8]」。そしてこれらの言葉が、先ず、イスラエルについて言われたとき、しかもイスラエルの子らが「彼らは、自分の道で悪事を働き、自分の聖なる神を忘れてしまった[9]」という言葉を聞いたとき、聖霊もまた、それに続いて、その言葉を、異邦の民の出身である私たちに向け変え、(私たちに)こう言われたのです。「子どもたちよ、立ち返りなさい。お前たちが立ち返れば、私はお前たちの諸々の傷を癒そう[10]」。実に私たちは、数々の傷に満たされているのです。もしも(私たちの)一人ひとりが、まさにいま傷を清められ癒されれば、こう言うことができるのではないでしょうか。「たしかに私たちもまた、不従順であり愚か者、また道に迷い、多種多様のさまざまな欲望と快楽の奴隷となり、悪意と妬みのうちに過ごし、憎まれ者であり、互いに憎しみ合っていました。ところが私たちの救い主である神の優しさと人類愛が明らかに現れた[11]とき、神は、再生の洗いをとおして、ご自分のあわれみを[12]私たちに注がれたのです」と。ところで、ちょうどのこの使徒の言葉に言及したところですので、私たちは、これをもっと明瞭に説明してみたいと思います。使徒パウロは、「私たは、かつて愚か者であり不従順であった」とは言いませんでした。彼は、使徒として、そしてイスラエルの子孫、しかも「律法における正義に関して非の打ちどころのなかった者[13]」として、こう言っているのであります。すなわち、イスラエルの子孫である「私たちもまた、かつては不住順であり愚か者でした」と。異邦の民の子孫たちだけが愚か者だったのではありません。異邦の民の子孫たちだけが不従順だったのでもありません。また、彼らだけが罪人だったのではありません。律法を教えられた私たちもまた、キリストの到来以前には、まさにそのようなものだったのです。

 



[1] Cf.Ac.13,14.

[2] Cf.Ac.13,26.

[3] Cf.Ac.13,33-35.

[4] Ac.13,46.

[5] duna,mei

[6] 直訳すれば、「聖霊は、(そのいうことを)聞かれませんでした」となる。主語は、聖霊である。

[7] to.n lo,gon khrusso,menon

[8] Jr.3,19-20.

[9] Jr.3,21.

[10] Jr.3,22.

[11] h. crhsto,thj kai. h. filanqrwpi,a e,pefa,nh tou/ swth/roj h.mw/n qeou/

[12] to.n e;leon au,tou/

[13] Ph.3,6.