10  「なぜなら私たちも、私たちの先祖も、私たちの神のみ前に罪を犯したからです[1]」。どうか私たちも、預言者(エレミア)が擬人法を使って語った人々と同じように[2]、「私たちは罪を犯しました」と言うことができますように。(ここで)「私たちは罪を犯しました」と言うことと、「私たちは罪を犯す」と言うこととは、同じではありません。実際、未だに罪のうちにある人は、「私たちは罪を犯しました」と言ってはなりません。以前に罪を犯しましたが、本当に悔い改めた人が、「私たちは罪を犯しました」と言わなければならないのです。『ダニエル()』には、罪をもはや犯さなくなった人々が述べる告白が書かれていますが、彼らは、「私たちは罪を犯し、律法に反する行いをしました[3]」と言って、同じことを言っております。また『詩編』のなかで預言者は、「どうか私たちの昔の不法を思い起こさないでください[4]」と言っていす。ですから私ちも、罪を告白しましょう。昨日の罪でも、一昨日の罪でもなく、どうせ告白するなら、十五年前に犯した罪を告白いたしましょう、それ以後の十五年間は、もはや罪がなかったものとして。もしも私たちが昨日罪を犯したなら、私たちは、自分の罪を告白しても、まだ信用に値しませんし、私たちのそれらの罪を拭い去る余地もないのです。

  「なぜなら、私たちも私たちの先祖も、私たちの若いときから、今日に至るまで罪を犯したからです[5]」。先ほどの個所では、告白の最善の仕方についての教えが語られたと言うことにしておきます。ここでは、以前に犯した罪の非難があるのです。エレミアは言っています。「私たちは、若いときから今日に至るまで、私たちの神なる主のみ言葉に聞き従わなかった[6]」と。私たちは罪を犯しました。そして現在まで聞き従いませんでした。やがて回心をし、回心の元を得た者たちは、「私たちは罪を犯しました。そして聞き従いませんでした」と言うのです。また、私たちは、回心しようと望むやいなや、直ちに聞き従うのではありません。実際、傷が治るのに時間を必要とするように、回心の場合にも、神に向かって完全で潔い回心をするには、なお時間がかかるものです。



[1] Jr.3,25.

[2] w.j ou-toi kata. th.n proswpopii,an tou/ profh,tou

[3] Dn.9.5.

[4] Ps.78,8.

[5] Jr.3,25.

[6] Jr.3,25.

 

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