11  これに加えて神は、イスラエルについてこう言っております。「イスラエルよ、私のところに立ち返る気があるなら、立ち返えれ、と、主は言われる[1]」。すなわち、<もしも>完全に立ち返る気があるなら、その(完全な)立ち返りによって立ち返れ、まるでいま始めて立ち返るかのようにして。次に神はこう言っておられます。「もしも(イスラエルが)自分の口から忌まわしいことを取り去り、私を前にして畏れを抱き、『主は、真実と分別と正義のうちに生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、イスラエルにおいて(神を)賛美するだろう[2]」と。(イスラエルの人々が)もしもそのようにすれば、「諸国の民は、イスラエルにおいて(神を)賛美するのです」。では、諸国の民がイスラエルにおいて(神を)賛美するために、(イスラエルの人々が)するこれらのこととは何でしょうか。「もしもイスラエルがその口から忌わしいことを取り去るなら[3]」とあります。では、「口から忌わしいことを」取り除くとは、どういうことでしょうか。私たちが悪いことを言うかぎり、私たちの口には、忌わしいことがあるのです。ですから私たちは、私たちの口から忌わしいものを取り去らなければなりません。私たちは、中傷や愚かな話、また(裁きの日に)私たちを告訴するのが必定の無益な話を取り除かねばなりません。こう言われています。「裁きの日に、あなたは、あなたの言葉によって正しい者とされ、また、あなたの言葉によって罪ある者とされるだろう[4]」と。ですからもしも私たちが、「諸国の民は、イスラエルにおいて(神を)賛美するであろう。そしてイスラエルのなかで神をほめたたえるだろう」という預言が、私たちに対して実現するのを望むのであれば、私たちは、元から言われたことを行うことにいたしましょう。初めのこと? それは私たちの「口から、忌わしいことを取り去ること」であります。次に、「私を前にして畏れを抱くなら」という言葉があります。(ですから)私たちは、二番目に、このことをしなければなりません。しかし無条件に[5]私たちが畏れを抱くために、そうするのではありません。と申しますのは、神のみ前にいなくとも、畏れの念が生じることもあるかもしれないからです。事実、(神のみ前にいるという)自覚をもって[6]畏れの念を抱かない人々でも、恐怖感を持とうと思えば、神のみ前にいなくても、畏れを抱くことができるのです。これに対して、(神のみ前にいるという)自覚をもって[7]畏れを抱く人々は、常に神のみ顔を仰ぎ、常に神のみ顔を思い描いていますから、神のみ顔を前にして畏れを抱くことができるのです。なぜなら「神のみ顔は、悪事を働く者たちに向かい、彼らの記憶は地から絶たれる[8]」からであります。



[1] Jr.4,1.

[2] Jr.4,1-2.

[3] Jr.4,1.

[4] Mt.12,36-37.

[5] a.plw/j

[6] e,pisthmo,nwj

[7] met~e,pisth,mhj

[8] Cf.Ps.33,17.

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