15  「心の包皮[1]」の考察に私たちを導いてくれそうな、もっと簡単な例でお話してみましょう。そこで、一歳の年齢の人の魂には、どうしても誤った考えが生じるものだということを、私たちは例として挙げておきましょう。元来、人間というものは、真実で<そして>清浄な教えを把握することができないものです。しかし神のみ言葉は、歴史(的な叙述)と文字通りの書物とを[2]備えるようにあらかじめお取り計らいになりました。それは、肉に即してアブラハムに生まれた子どもが、先ず、肉に即した言葉で養われるためであり、先ず最初に「女奴隷の子ども」が生まれ、その次に「約束によって自由の女からの子ども[3]」が生まれるようにするためだったのです。なぜこの例を取り上げたかが理解できれば、割礼の前に存在する心の包皮も理解できるでしょう。

  ですから私たちには、諸々の教えを清め、誤った考えによって私たちのうちに生じたすべてのものを取り除くみ言葉を受けいれる必要があるのです。それはつまり、私たちの心の包皮を取り去ることです。また、私たちが思いますには、主導能力[4]が心のなかにあって、そこに「邪な考えが生じる[5]」さまざまな思いなしが存在するとれば、さまざまな邪な思いを取り除く人は、「心の包皮」を取り除く人でもあります。誤った教えを取り除く人は、自分の「心の包皮」を割礼によって取り除く人であり、清い割礼を受けることによって、「ユダの人」、「エルサレムに住む人[6]」となるのです。ところが、自分の「心の包皮」を取り去らない人がいるなら、私たちは、み言葉がその人にどのような脅迫を行なっているかを見てみることにしましょう。み言葉は、次のように言っております。「私の怒りが火のように発して燃え上がり、消す者がいなくならないようにせよ[7]」。つまり、神のために割礼を受けない人たちや自分たちの「心の包皮」を取り去らない人たちに対して、神の怒りが火のように発するのです。「そして邪な行いを前にして、(それを)消す者はいなくなる」のです。この(怒りの)火は、私たちの邪な行いを燃料にしています。(また)行いの邪さがないところでは、(怒りの)火はその燃料の補給所を持ちません。この(怒りの)火の燃料が、諸々の行いの邪さであるということに関しては、次のように言う預言者の言葉をお聞きください。「そして、あなたたちの行いの邪さを前にして、(その火を)消す者はいないだろう」と。

  「お前はユダのなかで知らせよ。お前はイスラエルのなかで聞かせよ。あなた方は言いなさい。[あなた方は知らせなさい。]あなた方は大地に向かって角笛を吹き鳴らし、大声で叫びなさい[8]」。エレミアは、これらの知らせを「ユダのなかで」、ユダ族であるキリストに属する人々に告げ知らせよと、言っています[9]。実際、「私たちの救い主は、ユダ族から出ました[10]」。

 


[1] Jr.4,4.

[2] i.stori,aj kai. grafh/j th/j kata. to. r.hto,n

[3] Ga.4,23.

[4] to. h.gemoniko,n

[5] Mt.15,19.

[6] Jr.4,4.

[7] Jr.4,4.

[8] Jr.4,5.

[9] Cf.Hom.Jr.IV, 2.

[10] He.7,14.

 

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