次に私たちは、私たちのこれまでの悪事を断罪いたしました。私たちは、諸々の偶像を偉大で崇高なものと思い込み、(それらに)ひれ伏し、驚くべきものと見なし、それらを礼拝していました。しかし今や私たちは、それらのものがすべて偽りであり、まったく何にも値しない物であることがわかったのです。そこで私たちは「立ち返り[1]」、「本当に諸々の丘は偽りでした[2]」と言ったのです。そして私たちは、それまで崇高であった物やこれまでの驚嘆すべき物を断罪したのでした。それに、もしも私たちが(表現)技法に凝っている者であれば、たぶん、異邦人たちの間における諸々の丘と諸々の山の違いを見出すことができるでしょう。これらの物を捨てて、「ご覧ください。ここにいる私たちは、あなたのみもとに参ります。なぜならあなたは、私たちの神だからです[3]」と言った人たちは、それらの物を、すなわち、諸々の丘や諸々の山を偽り物として断罪したのです。では、異邦人たちの間における諸々の山と丘の違いはどのようなものなのでしょうか。私たちはそれらの物を捨て去って、こう言いました。「本当に、諸々の丘と諸々の山の力[4]は偽り物でした[5]」と。私たちは、以前の物を断罪してこう言っているのです。異邦人たちの間では、崇拝される対象[6]の一部は神々として崇拝され、またある物は英雄として崇拝されています。彼らは、あるものについて次のように告白しております。それらは、以前は<人間>であったが、神格化された[7]、と。彼らは、ヘラクレスを、神として生まれたのではありませんが、人間から神に変えられたものとして崇拝しているのです。彼らは、アスクレピオスを、その徳によって人間から神に変えられたものとして崇拝しているのです。これに対して彼らが、それらのものの父たちを、自分たちの考えで神と見なして礼拝する場合には、彼れらは、(それらを)人間から神に変わったものとしてではなく、彼らの考えでは、元から[8]神々であったものとして礼拝しているのです。ですから、異邦人たちによって元から神々であると見なされているものは、諸々の山や「諸々の山の力」であるに違いありません。そして彼らによって今は神々であるが、以前は人間であったと思われているものは、「諸々の丘」なのです。

このように(主のみもとに立ち返った)彼らは、礼拝の対象に二つの種類がある[9]ことを認めて、「本当に諸々の丘と、諸々の山の力は偽り物であった[10]」と言ったのです。(ところが)それらのものを崇拝する人たちは、それらのものが偽りであるとは思っていません。それゆえ彼らは、諸々の託宣を<真実の託宣であり>、諸々の癒しを真実の癒しであると考えていて、「あらゆる悪事へのいざないのなかで滅びる人たちに生じる偽りのしるしや不思議な現象のあらゆる力[11]」と、真実のしるしや不思議な現象のあらゆる力との区別がわからないのです。実に、キリスト・イエズスがなさったこと、それらは真理のしるしでした。そして彼以前にモーセの行ったことも、真理の力でありました。しかしエジプト人たちが行ったことは、偽りのしるしや不思議な現象だったのです[12]。イエズスの後に、魔術師シモンが行ったことも同様であります。彼は、サマリア人たちを惑わして、自分を「神の力[13]」だと思い込ませようとしていたのです。それらは、偽りのしるしであり、偽りの不思議な現象でした。

ですから私たちが、あのようなものを断罪したとき、私たちはそれらを断罪しつつ、「本当に諸々の丘と、諸々の山の力とは、偽り物でした」と言ったのです。



[1] Jr.3,22.

[2] Jr.3,23.

[3] Jr.3,22.

[4] h. du,namij tw/n o,re,wn

[5] Jr.3,23.

[6] ta, proskunou,mena

[7] a,peqew,qhsan

[8] a,rch/qen

[9] a,mfo,tera <ta.> proskunou,mena ta,gmata,

[10] Jr.3,23.

[11] Cf. 2 Th.2,9-10.

[12] Cf. Ex.7,1 - 8,15.

[13] Cf. Ac.8,9-10.

 

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