ですから、異邦の民の出身者である私たちは、自分自身を省みて、かつて真実であると見なしていたものが偽りであったとして悔い改め、「本当に諸々の丘と、諸々の山の力とは、偽りであった[1]」と言いましょう。他方、私たちは、私たちの後で救われるイスラエルについてこう言いましょう。「しかしイスラエルの家の救いは、私たちの神なる主による[2]」と。そして私たちの父や私たち自身が偶像崇拝をした罪を告白して、次のように言うことにいたしましょう。「恥辱が、私たちの先祖たちの若いときからの労苦や、彼らの羊、彼らの牛、彼らの息子たちや彼らの娘たちを焼き尽くした[3]」と。「恥辱が、私たちの先祖たちの労苦や」その他ここで言われているものを「焼き尽くした」のです。つまり、先祖たちの厄介な労苦や偽りの業が焼き尽くされる定めにあるならば、恥辱は生じなければならないのです。実際、恥辱がなければ、私たちの先祖たちの労苦や、その他のものが焼き尽くされることはないでましょう。そこで、私たちは、罪を犯した者たちの違いを考えてみましょう。(罪人たちのなかには)罪を犯しても、自分たちの罪のゆえに恥じ入らず、面目を失わず、また赤面しない人たちがいます。そのような人たちは「無感覚で、あらゆる放縦と汚れに身を委ねている[4]」のです。実際、あなたは、異邦人に属する者たちが、一体どのようにして、自分たちの犯した姦通や姦通をまるで手柄でもあるかのように数え上げ、しかもそれらのことを行ったと告白しても恥じ入らず、それらを罪とさえ言わないのかを、とくとご覧ください。彼らが恥じ入らないかぎり、彼らの労苦が焼き尽くされることはありませんし、彼らの罪が焼き尽くされることもありません。諸々の善の元は、(これまで)恥じなかったものを恥じ入ることにあるのです。ですから私は、預言者たちによって次のように言われていることを呪いだとは思っておりません。すなわちこう言われております。「シオンを憎む者たちは、みな、恥じを受け、尻込みしなければならない[5]」。この言葉は、諸々の恥ずべき業に鈍感な人たちを(その)自覚に至らしめ、彼らが恥じ入ることによって、自分たちの諸々の労苦や罪を焼き尽くすことができるようにと願う祈りなのです。



[1] Jr.3,23.

[2] Jr.3,23.

[3] Jr.3,24.

[4] Ep.4,19.

[5] Ps.128,5.

 

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