他方(エレミアは)、先祖たちの非理性的な動きを、「羊」と「牛」と言いました。たしかに、すべての非理性的なものが賞賛に値すると言うわけではありません。罪を犯した先祖たちの羊のように、非難されるべき非理性的なものもあれば、「私の羊は、私の声を聞き分ける[1]」と言われているように、賞賛されるべき非理性的なものもあるのです。また(エレミアの述べた)それらの羊は、私たちがよき牧者を私たちの魂のうちに持った場合に、私たちが類似性を持つ羊でもありました。実際、救い主が、「私はよき牧者である[2]」とおっしゃるとき、私は単に、誰もが理解するような普遍的な意味で、「(救い主は)信者たちの牧者である」と理解しているだけではございません    もちろんこれは、真に健全で真理に根差した理解でありますが・・・    。さらに私は、私のなかに、私の魂の内側にもキリストを持たねばならないのです。キリストが、私の内にある非理性的な動きを牧してくださり、それらの動きがもやは勝手に牧草地に抜け出ることがなくなって、かつて(キリストとは)無縁であったものが(よき)牧者に導彼、そのお方の所有物となるようにしてもらいたいのです。ですから、いま、牧者が私の内にいてくださり、私の諸々の感覚を統御してくださるなら、それらの感覚は、ファラオやネブカドネザルなどの異質な精神の支配下にはいなくなり[3]、よき牧者のもとにいることになるでありましょう。



[1] Jn.10,27.

[2] Jn.10,11.

[3] Cf. Hom.Nb.XI,4.

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