ですから、「恥辱が、私たちの先祖たちの若いときからの労苦や、彼らの羊、彼らの牛を焼き尽くした[1]」のです。私たちの内には、私たちを耕すものが存在します。耕作者について悪く言わなければならないとすれば、私たちを悪く耕す耕作者がいます。またよく耕すものも、私たちの中には存在します。もしもそれが、(私たちを)悪く耕せば、先祖たちの労苦は、自分たちに恥辱によって焼き尽くされてることになるのです。ところがもしもそれが良く耕せば、先祖たちの労苦は存在しません。そのかわり牛が存在して、その牛の初子が神のいけにえの祭壇に捧げられることになるのです[2]

  彼ら(イスラエルの人たち)は、「自分たちの息子たちや娘たちを[3]」と言っています。自分たちの恥辱によって焼き尽くされるこれらの息子たちや娘たちは、「先祖たち」のものでなければ、一体誰の子どもなのでしょうか。私たちはしばしば次のように申し上げました。魂の生み出したものの内で、諸々の思いは[4](その)息子たちであり、身体をとおした諸々の業と諸々の行いは[5](その)娘たちであると。ですから、異邦の民の出身者たちが考えたような邪悪な思いや邪悪な業が存在するのです。そしてその結果、息子たちや娘たちは、彼らを生み出した者たちにその犯した罪による恥辱が押し寄せてきたとき、親たちによって焼き尽くされることになるのです。しかし私たちには、恥辱によって焼き尽くす必要のある息子たちや娘たちを作ることがあり得ませんように。



[1] Jr.3,24.

[2] Cf.Nb.18,17.

[3] Jr.3,24.

[4] ta. noh,mata

[5] ta. e;rga kai, ai.pra/xeij

 

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