ですから以上のことは、あなたが、不名誉と恥辱の業によってあなたの顔に掛けられた覆いを、自ら取り除くようにするために、書かれたものなのです。もしもあなたが主の方に向き返るなら、そのときあなたは、覆いを取り除くでありましょう。そしてあなたは、もはや、「私たちの恥辱が私たちを覆った[1]」とは言わなくなるでありましょう。たとえば、誰かに対する怒りが、私たちの魂に臨むなら、私たちの顔には覆いが掛けられているのです。それゆえ、もしも私たちが祈りのなかで、「主よ、あなたのみ顔の光を私たちに示してください[2]」と言うなら、私たちは覆いを取り除いて、使徒のあの言葉を実行しなければなりません。「私の望みは、男たちがどんなところでも、怒らず議論をせず、敬虔な手を挙げて祈ることです[3]」。私たちは、もしも怒りを取り去ったなら、私たちは覆いを取り除くことになります。(その他の)すべての情念についても同様でありましょう。それらの情念が私たちの精神のなかに、私たちの思いのなかにあるかぎり、私たちの内的な顔、私たちの主導能力には[4]、覆いと恥辱が掛けられていて、私たちは、神の輝ける栄光を見ることができないのです。神が私たちから、ご自分の栄光をお隠しになるのではありません。むしろ私たちが、悪事によって、主導能力に覆いを掛けるのです。



[1] Jr.3,25.

[2] Ps.4,7.

[3] 1 Tm.2,8.

[4] tw/| e;ndon prosw,pw|, <tw/|> h.gemonikw|/ h.mw/n

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