「彼らは、自分たちの顔を岩よりも硬くしました[1]」。この言葉についても、より身体的な事柄から始めれば[2]、あなたは、理解できると思います。罪人たちのなかには、(自分の)罪に対する譴責の言葉を聞くと、赤面して恐れ入り、自分に降りかかる譴責の言葉に身を委ねる者たちがいます。ところが自分の犯した罪について譴責されても恥じ入らず、厚顔無恥になっている罪人たちもいるのです。あなたなら、恥知らずのこのような者たちについて、「彼らは、自分たちの顔を岩よりも硬くした」と言うでありましょう。あなたが、身体的な事柄において、その言葉を理解したのでしたら、どうか理性において魂の次元へと移り[3]、「そのとき(私たちは)顔と顔を合わせて(見る)[4]」と(聖書に)言われている、あの顔のことをお考えください。そして硬直したファラオの心のように[5]、告げられたことに反抗し、告げられたことに即して変わるどころか、言われたことを投げ捨てるほどに硬くなった魂をお考えください。あなたは、これに対して、「彼らは、自分たちの顔を岩よりも硬くした」という言葉がふさわしい、ということに気がつくでありましょう。

  「しかし彼らは、立ち返ろうとしませんでした。そして私は言った。『彼らは、貧しい物乞い同然になった。なぜなら彼らは、主の道と神の裁きを知ろうとはしなかったから。私は、力のある者たちのところへ行き、彼らに語ろう』と[6]」。エレミアは、これらの言葉が教育を受けようとはせず、神の鞭について思いめぐらさない者たちに向けられているものであることを理解していたので、彼らの(不従順の)原因を悟った上で、「彼らの魂は、貧しい物乞いである」と言ったのです。

 「そして私は言った。『彼らは、貧しい物乞い同然になった。なぜなら彼らは力がなく、主の道と神の裁きを知らなかったから。私は、力のある者たちのところへ行き、彼らに語ろう』と[7]」。魂において力のある人は、賞賛のうちに語られます。実際、ギリシア人たちの間でも、魂の強さや偉大さが絶えず取り沙汰されているのです。たとえばある人が、偉大な事業に取りかかり、注目すべき志を抱き、常に然るべきことを追求し、正しい理拠に従って生活し、卑しいことや取るに足らぬことを望んだり目にしたりしないようにするなら、そのような人は、魂に強さと偉大さを持っているのです。ですからみ言葉が責めた前出の人々は、貧しかったので話を聞かなかったのです。それで(エレミアは)、彼らが貧しくて話を聞かなかった、「私は、力ある者たちのところへ行き、彼らに語ろう」と言ったのです。しかも、「聴く耳を持つ人たちに」語る人が幸いであるなら[8]、偉大で力強い聴き手に出会う人は、幸いであります[9]

 以上述べて参りましたように、このようなわけで、話を聞いている人にだけ話をする者たちにとって、話を聞いてもらえないこと[10]は何の損失にもならないということを、私たちは知りましたので、また(エレミアが聴く耳を持たない)彼らの精神と思いの貧しさを非難したのを知りましたので、私たちは、神聖で聖なるみ言葉を聴くことができるよう、私たちのうちに成長する神であるみ言葉から[11]、キリスト・イエズスに結ばれた強さと偉大さとを頂けるよう、(神に)願うことにいたしましょう。キリスト・イエスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン[12]

 



[1] Jr.5,3.

[2] VApo tw/n swmatikwte,rwn

[3] meta,ba moi tw/| lo,gw| evpi. th.n yuch.n

[4] 1 Co.13,12.

[5] Cf.Ex.4,21.

[6] Jr.5,3-5.

[7] Jr.5,4-5.

[8] Si.25,9.

[9] Cf.C.Celse III,74.

[10] to. mh. parade,cesqai ta. avpaggelo,mena

[11] avpo. tou/ qeou/ ))) au;xontoj tou/ lo,gou

[12] Cf.1 P.4,11.

 

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