「すべての人が、知識によって愚かになった[1]」。すべての人が知識によって愚かになったとすれば、パウロも人間ですから、パウロは知識によって愚かになったのです。なぜならパウロが「知るのは一部分、預言するのも一部分[2]」だからです。パウロは、知識によって愚かになりました。なぜなら彼は、「鏡を通して見ている」からであり、「ぼんやりと謎めいて見ている[3]」からです。彼が見て把握しているのは、事柄のほんのわずかの部分、それもこう言ってよければ、最小限の部分なのです。またあなたは反対対立する事柄から[4]、この「すべての人が知識によって愚かになった」という言葉を理解することができるでしょう。エルサレムの罪があります。ソドムの罪もあります。しかしエルサレムのより重い罪に比べてみますと、ソドムの罪は義となるのです。実際、聖書は、「ソドムはお前のゆえに、正しい者になった[5]」と言っています。ですから、ソドムの罪は義[6]ではなく不義[7]ですが、より大きな不義と比べれば義であるのと同じように、知識についても反対対立する事柄から[8]明らかにされます。パウロにある知識は、諸々の天にあるあの知識、あの完全な知識に比べますなら、愚かなのです。それで「すべての人が、知識によって愚かになった」のです。伝道者は、何かそういったことを捉えて、こう言っていたように私には思われます。すなわち、「私は言った。『私は知恵ある者となろう』。しかし知恵は、以前にもまして、私から遠く遠のいていった。一体誰が、この深い深みを見いだせよう[9]」と。



[1] Jr.10,14.

[2] 1 Co.13,9.

[3] 1 Co.13,12.

[4] evk tou/ evnanti,ou

[5] Cf.Ez.16,51-53.

[6] dikaiosu,nh

[7] avdiki,a

[8] evk tou/ evnanti,ou

[9] Qo.7,23-24.

 

 

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