7 「すべての人が、知識によって愚かになった[1]」。すべての人が知識によって愚かになったとすれば、パウロも人間ですから、パウロは知識によって愚かになったのです。なぜならパウロが「知るのは一部分、預言するのも一部分[2]」だからです。パウロは、知識によって愚かになりました。なぜなら彼は、「鏡を通して見ている」からであり、「ぼんやりと謎めいて見ている[3]」からです。彼が見て把握しているのは、事柄のほんのわずかの部分、それもこう言ってよければ、最小限の部分なのです。またあなたは反対対立する事柄から[4]、この「すべての人が知識によって愚かになった」という言葉を理解することができるでしょう。エルサレムの罪があります。ソドムの罪もあります。しかしエルサレムのより重い罪に比べてみますと、ソドムの罪は義となるのです。実際、聖書は、「ソドムはお前のゆえに、正しい者になった[5]」と言っています。ですから、ソドムの罪は義[6]ではなく不義[7]ですが、より大きな不義と比べれば義であるのと同じように、知識についても反対対立する事柄から[8]明らかにされます。パウロにある知識は、諸々の天にあるあの知識、あの完全な知識に比べますなら、愚かなのです。それで「すべての人が、知識によって愚かになった」のです。伝道者は、何かそういったことを捉えて、こう言っていたように私には思われます。すなわち、「私は言った。『私は知恵ある者となろう』。しかし知恵は、以前にもまして、私から遠く遠のいていった。一体誰が、この深い深みを見いだせよう[9]」と。
[1]
Jr.10,14.
[2]
1 Co.13,9.
[3]
1 Co.13,12.
[4]
evk
tou/ evnanti,ou
[5]
Cf.Ez.16,51-53.
[6]
dikaiosu,nh
[7]
avdiki,a
[8]
evk
tou/ evnanti,ou
[9]
Qo.7,23-24.