み言葉は、大胆にも次のことを言おうとしています。すなわち、「この(世の)生命に到来したものは、『それ自身を空しくした[1]』。それは、それ自身の無化によって、宇宙が満たされるようになるためである[2]。しかしもしもこの(世の)生命に到来したものが、<それ自身を>空しくしたのなら、この無化それ自体は知恵であった。なぜなら『神の愚かさは、人間たちよりも賢いから[3]』である」と。私が、「神の愚かさ」と言ったとしても、訴訟好きな人たちは一体どのようにして私を訴えるのでしょうか。一体どのようにして私を非難するのでしょうか。彼らにもよいと思われることを幾千と言ったとしても、私が「神の愚かさ」を語ったので、これについてはよくないことを言ったとして、どうして私は咎められると、彼らは考えるのでしょうか。ところが、パウロは知者として、そして使徒の権威を持つ者として[4]、この地上の知恵はすべて、自分の内にある知恵もペテロの内にある知恵も(その他の)使徒たちの内にある知恵も、この世に到来した知恵はすべて、「神の愚かさ」であると大胆にも言ったのです。実際、この地上の場所に収めきれないあの知恵にくらべれば、天を超え宇宙を超えるあの知恵に比べれば[5]、この(世に)到来したものは、「神の愚かさ」なのです。しかしこの「神の愚かさは、人間たちよりも賢い」のです。どのような人間たちよりも賢いのでしょうか。愚か者たちよりも賢いと、私は言いません。(神の愚かさは)知恵ある人間たちよりも賢いのです。たとえあなたが、「支配者たち」や「この代の支配者たち[6]」の預言者らが、この代の知者であると言うとしても[7]、私の申し上げた「神の愚かさは、人間たちよりも賢い」のです。



[1] Cf.Ph.2,7.

[2] Cf.C.Cels IV,15.

[3] 1 Co.1,25.

[4] evxousi,an e;cwn avpostolikh.n

[5] w`j pro.j evkei,nhn th.n sofi,an th.n u`peroura,nion( th.n u`perko,smion;cf. Platon, Phèdre 247C.

[6] Cf.1 Co.2,8.

[7] Cf.1 Co.2,6;C.Celse I,70;VII,3.

 

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