9 み言葉は、何か不条理なことを言おうとしております。「この世の知恵は、神のみ前では愚かである[1]」、「神はこの世の知恵を愚かなものにされた[2]」と。神は、(ご自分の)知恵によって、この世の知恵を愚かにされたのでしょうか。この世の知恵は、自分が愚かであることを説き伏せられるために、(神の)知恵を受け入れることができるのでしょうか。そもそも神の知恵は、この世の知恵と競い合って、この世の知恵が神と競い合って打ち負かされるようにするのでしょうか。いやいや、それには神の愚かさというほんの僅かなもので足りるのです。この世の知恵は、神のこのほんの僅かの愚かさによって、愚かにされ、打ち負かされるのです。なぜかと申しますと、この世の知恵は、神の知恵を担うことができなかったからであります。「神の愚かさ」が「この世の知恵を愚かにした」ことをあなたがご理解するために、次のような例を挙げておきましょう。私が、無知無教養で無理解、そして高貴などんな理論のためにも戦ったことのない人と競い合うとします。これに対して私は、彼よりもたくさんのことを知っているとします。どうでしょう。私はその人と戦うために、問答法や深遠な諸理論を必要とするでしょうか  もしもその人の考えが愚かなものであるとすれば。その人の愚かさを論証するには、その人の言葉よりもいくらか鋭いことをひとこと言えばよいのではないでしょうか。同様に、この世の知恵が愚かにされるには、神の知恵がこの世の知恵と競い合う必要はないのです  この世の知恵は劣ったものなのです。むしろ、神の愚かさで充分です。なぜなら、「神の愚かさは、人間たちよりも賢く、神の弱さは人間たちよりも強い[3]」からです。

 私の救い主であり主であるおん方は、まさに(ご自身に)反対対立するすべてのものをお引き受けになり、これらの反対対立するものによって、反対対立するものを滅ぼしになりました[4]。それは、私たちがイエスの弱さによって強められ、神の愚かさによって知恵ある者とされるため、また私たちが、この強く知恵ある状態に導きいられることによって、神の知恵・神の力であるキリスト・イエスのみ許にまで昇ることができるようになるためだったのです。キリスト・イエスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン[5]



[1] 1 Co.3,19.

[2] 1 Co.1,20.

[3] 1 Co.1,25.

[4] i[na toi/j evnanti,oij lu,sh| ta. evnanti,a

[5] 1 P.4,11.

 

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