第9講話

主からエレミアに臨んだ言葉。その言葉は言う。『お前たちは、この契約の言葉を聞きなさい』」から、「彼らは、自分たちの先祖の諸々の不正にもどったまで


 

 

 

 私たちのイエズス・キリストの来臨の記述によれば[1]、その到来は身体的に行われました。それは、何かしら普遍的なもので、世界全体を照らすものでもありました。なぜなら「み言葉は肉となり、私たちの間に幕屋を張られた[2]」からです。み言葉は、「すべての人を照らす真の光であった。それは、世に来た。み言葉は、この世にあった。そしてこの世はこのみ言葉によって成った。しかしこの世はみ言葉を認めなかった。み言葉は、ご自分のもののところに来たが、ご自分の者たちはみ言葉を受け入れなかった[3]」のであります。しかしながらみ言葉は、以前にも、たとえ身体的にではなくとも、聖なる人たちの各々に到来されたのであり、またその目に見える到来の後でも、更に私たちのところにも来臨なさるのを知らなくてはなりません[4]。もしもあなたがこのことの証明を手に入れたいと望むなら、次の言葉に注意を向けてください。すなわち、「主からエレミアに臨んだみ言葉。そのみ言葉は言われる。『お前たちは聞きなさい』。云々[5]」。エレミアに対してであれ、イザヤに対してであれ、エゼキエルに対してであれ、その他どのような人に対してであれ、「主から臨んだみ言葉」とは、何でありましょうか。それは、「元に」「神とともにあった[6]」み言葉ではないでしょうか。私は、福音史家が述べているみ言葉以外に、主のみ言葉を知りません。彼はこう言っております。「元にみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった[7]」と。

また私たちは、次のことを知っておかなければなりません。利益を得ることのできる人々に対して対しては特に、み言葉が個別に訪れてくださるということです。み言葉が世に到来されたというのに、私がみ言葉を持たないとすれば、どんな利益が私にあるのでしょうか。逆に、たとえみ言葉がまだ世界全体に到来していなかったとしても、私が預言者たちと同じような立場にあれば、私はみ言葉を持つのです。まさに私は、キリストがモーセのところに、エレミアのところに、イザヤのところに、義人の一人ひとりのところに来られたと言いたいと思います。そして「見よ、私は、代の完成まで、いつもあなた方とともにいる[8]」と、キリストが弟子たちに仰せになった言葉は、キリストの到来以前に、実際に守られ、実現されたと、私は言いたいのであります。たしかにキリストは、モーセとともにおりました。イザヤとともにおりました。そして聖人たち一人ひとりとともにおられました。これらの人たちは、神のみ言葉が彼らに到来していなかったすれば、どうして神のみ言葉を語ることができたでしょうか。これらのことは、教会人である私たちの間では[9]、特に知られる必要があります。なぜなら私たちは、律法の神と福音の神が同じ神であること、キリストが当時も今も<そして>すべての代々にわたって同じ方であることを望んでいるからです。救い主の到来以前のかつての神性と、イエズス・キリストによって告げ知らされた神性とを切断する人々がいることでしょう。もちろんこれは、彼らの了見に基づくかぎりでのことです[10]。しかし私たちは、当時も今も神が唯一であり、キリストが当時も今もだたお一人であることを知っているのであります。

以上は、「主からエレミアに臨んだ言葉。その言葉は言う[11]」という言葉に関して述べてみたものです。では、一体私たちは何を耳にするのでしょうか。「お前たちは、この契約の言葉を聞きなさい。そしてお前たちは、ユダの人たちとエルサレムに住む者たちに語れ[12]」とあります。ユダの人たちとは、キリストのゆえに、私たちのことであります。「なぜなら私たちの主が、ユダ()出身であることは明らかなことだから[13]」であります。そしてもしもユダという名がキリストに溯ることが聖書に従って示すことができるとすれば[14]、ユダの人たちとは、キリストを信じないユダヤ人たちではなく、まさにキリストを信じている私たち自身ということになるでありましょう。「ユダよ、お前の兄弟たちは、お前をたたえるであろう。お前の手は、お前の敵たちの背に置かれるだろう[15]」。「(彼らは)お前をたたえるであろう」とあります。兄弟たちがたたえたのは、あのヤコブの息子、かつてのユダではありません。兄弟たちがたたえるのは、現在のユダであります。なぜなら現在のユダはこう言っているからです。「私は、私の兄弟たちに、あなたの名を告げた。私は、教会のただ中であなたを賛美しよう[16]」と。「お前の手は、お前の敵たちの背に置かれるだろう」という言葉は、かつてのユダに向けて言われたのではありません。敵たちの背に手を置いたかつてのユダがどこに見出されるでしょうか。歴史は、彼についてこのようなことがあったとは何も書き記していません。もしもあなたが、主イエズスの到来を理解しているのなら、すなわち、悪魔を「滅ぼし[17]」、「諸々の支配の霊や権威の霊の力をはぎ取り、(征服された彼らを)十字架によってさらし者にし、勝利を得られた[18]」主イエズスの到来を理解しているなら、「お前の手は、お前の敵たちの背に置かれるだろう」と言う預言は、現在のユダにおいて実現されたことが、おわかりになるでしょう。事情がこのとおりであり、み言葉がいま、「ユダの人たち」に語っておられるとすれば、このみ言葉は、ユダ族出身のゆえにある意味でユダとも言われるキリストを信じる私たちを除いて、一体どのような人たちに語るのでありましょうか。



[1] Kata. me.n th.n i`storoume,nhn parousi,an tou/ kuri,ou h`mw/n VIhsou/ Cristou/ )))

[2] Jn.1,14.

[3] Jn.1,9-11.

[4] Crh. me,ntoige eivde,nai o[ti kai. pro,teron evpedh,mei( eiv kai. mh. swmatikw/j( evn e`ka,stw| tw/|n a`gi,wn( kai. meta. th.n evpidhmi,an auvtou/ tau,thn th.n blepome,nhn pa,lin h`mi/n evpidhmei/)

[5] Jr.11,1sq.

[6] Jn.1,1.

[7] Jn.1,1.

[8] Mt.28,20.

[9] kaqVh`ma/j tou.j evkklhsiastikou.j

[10] Cf.De orat.19,12 (GCS 3, p.387,6).

[11] Jr.11,1.

[12] Jr.11,2.

[13] He.7,14.

[14] Cf.Hom.Jr.IV,2 et V,15.

[15] Gn.49,8.

[16] Ps.21,23(LXX).

[17] 1 Co.15,24.

[18] Col.2,15.

 

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