こういうわけで私たちが神の民となり、「神の義は、やがて生まれる民に告げられる[1]」ことになったのです。たしかにこの現在の民は、一度に産まれます。預言者の言葉の中で、「一つの民が一度に産まれた[2]」と言われています。救い主が到来し、一日で「五千人の人々[3]」が信じたとき、さらに別の日に三千人の人々が(この仲間に)加えられたとき[4]、一つの民が一度に産まれたのでした。そして民の全体が神のみ言葉によって産まれ、以前には子を産まなかった産まず女が一度に子をもうけるのを見ることができます。彼女についてこう言われます。「子を産まなかった不妊の女よ、喜びなさい。産みの苦しみをしたことのない女よ、歓声を上げ、喜び叫べ。不毛の女の子どもらは、夫ある女の子どもらより多くなる[5]」と。不妊の女は、律法がなくて不毛でした。彼女には神がいなくて、不毛だったのです。これに対して、(ここでは)あの(ユダヤ人たちの)会堂が、律法を夫として持つ、と言われているのです。

では神は、私に何を約束されているのでしょうか。「お前たちは私の民となり、私もお前たちの神になる[6]」。神は、すべての人の神なのではありません。神は、「私はお前の神である[7]」と言われた太祖に、ご自身を恵み与えられたように、神がご自身を恵み与える者たちの神なのです。神は、また別の人にはこう言っておられます。「私は、お前の神となる[8]」。さらに別の人たちについて、「私は、彼らの神となる[9]」と言っておられます。では、いつ私たちに、神が私たちの神になるという事態が生じるのでしょうか  もちろん私は、私たち一人びとりについて言っております。もしもあなたが、神は一体どのような人たちの神であり、どのような人に神はご自分の呼称[10]を恵み与えられるのかお知りになりたければ、(次の言葉をお聞きください)。神は、「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である[11]」と言っておられます。そして救い主は、このみ言葉を説明して次のように言っております。「神は、死んでいる人たちの神ではなく、生きている人たちの神である[12]」と。死んでいる人とは誰でしょうか。それは罪人や、「私は生命である[13]」と言われるお方を持たない人、「死をもたらす業」を持つ人、「死をもたらす業」をまだ悔い改めていない人、このような人たちについて、使徒は、「(彼らは)死をもたらす業を悔い改める礎をもう一度置こうとしない[14]」と言っております。

したがって「神が、死んでいる人たちの神ではなく、生きている人たちの神である[15]」とするなら、また、生ける者とは誰なのかを知っていれば、すなわち、生ける者とはキリストに従って生活し、キリストと共にある者であることを知っているなら、神が私たちの神になることを私たちが望んだ場合、私たちは、死の業から離れることにいたしましょう。そして神が、次のように言われるご自分の約束を果たしてくださるように願いましょう。「そして私は、お前たちの神となる。それは、私がお前たちの父祖たちと誓った私の誓いを守り、彼らに乳と密の流れる土地を与えるためである[16]」。神が言われていることに留意してください。「私は、お前たちの父祖たちと誓った私の誓いを守り、彼らに乳と密の流れる土地を与えるためである」とあります。それは、まるで彼らに、「乳と密の流れる土地」をまだ与えていないかのようであります。たしかに、神が「乳と密の流れる土地」として約束されたと地は、この(地上の)土地ではありませんでした。それは救い主が、「柔和な人は幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう[17]」と言って教えられた、あの(天上の)土地のことなのです[18]



[1] Cf.Ps.21,32(LXX).

[2] Is.66,8.

[3] Ac.4,4.

[4] Cf.Ac.2,41.

[5] Is.54,1(Ga.4,27).

[6] Jr.11,4.

[7] Gn.17,1.

[8] Gn.35,11.

[9] Ex.29,45.

[10] h` e`autou/ evpi,klhsij

[11] Ex.3,6.

[12] Mt.22,32.

[13] Jn.11,25.

[14] He.6,1.

[15] Mt.22,32.

[16] Jr.11,4-5.

[17] Mt.5,5.

[18] Cf.Hom.Ps.36,II,4.

 

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