次いで、主によって先ほど言われたことに対して、預言者が応えます。すなわち、「この契約の言葉に聞き従わない人は呪われる[1]」という言葉に対して、エレミアはこう言っております。「そして彼は応えて言った。そうなりますように、主よ[2]」と。「そうなりますように、主よ」とは、どういうことでしょうか。「この契約の言葉に」留まらない者は、呪われるのです。

 「そして主は、私に言われた。これらの言葉を、ユダの町々の中とエルサレムの外で読んで聞かせよ[3]  私たちも、外にいる人たちに神のみ言葉を読んで聞かせ、彼らを救いに招いています  。「<主は言われる>。お前たちは、この契約の言葉に<聞き>、それを行え、と。しかし彼らは行わなかった。そして主は、私に言われた。ユダの人々とエルサレムに住んでいる者たちの中に、(共謀の) 絆が見出された、と[4]」。私たちも、ユダの人々について言われた諸々の罪を悔い改めなければならないのではないでしょうか。なぜなら私たちは、ユダとして預言されユダと呼ばれるキリストのゆえに、私たちがユダの人々であることを知っているからです。実際、私たちの間に、罪人たちがおり、彼らが正道に外れた行いをしているので、預言者はこう言ったのではないでしょうか。「ユダの人々とエルサレムに住んでいる者たちの中に、(共謀の) 絆が見出された[5]」と。たしかに、教会に属する者である自認する者たちの中に「不正の絆[6]」や「罪の絆」が見出され、その結果、「各人が各自の罪の綱で縛られる[7]」という(聖書の)言葉がその罪人に当てはめられるようになったとき、「ユダの人々の中に(共謀の) 絆が見出された」と、神は言われるでありましょう。しかし私たちの中には、(罪の) 絆が見出されませんように。しかし今日に至るまで、ある人たちの中に(罪の) 絆があるとすれば、どうして私たちの中に(罪の) 絆が見出されないと言うでしょうか。「不正の絆をことごとく断ちなさい。強制的な契約の結び目を解きほぐしなさい。すべての不正な協約を引き破りなさい。飢えた人にあなたのパンを分け与えなさい[8]」。

さて、「ユダの人々とエルサレムに住んでいる者たちの中に、(共謀の)絆が見出された。そして彼らは、自分たちの以前の父祖たちの諸々の不正に戻った[9]」とあります。彼らは、どのような人たちの「不正に戻った」のでしょうか。(主は)単純に、「父祖たちの」と言ったのではありません。では、何が付け加えられたのでしょうか。「彼らは、自分たちの以前の父祖たちの不正に戻った」とあります。私たちとしては、これらの言葉が、私たち自身と、私たちの中にいる罪を犯した者たちとに対して言われたものだと、申し上げたいと思います。では、どうして、私たちの中で罪を犯す者たちは、「父祖たちの不正に」戻らないで、「以前の父祖たちの不正に戻った」のでしょうか。とすると、私たちの父祖は二種類いることになるのではないでしょうか。そして、私たちの中には、悪い種類の父祖たちが存在するのではないでしょうか。なぜなら私たちは、信仰を持つ以前は、言ってみれば悪魔の子らだったからです。福音のみ言葉が証明している通りです。「あなた方は、悪魔である父に由来する者である[10]」と。これに対して、私たちが信仰を持つようになったとき、私たちは、「神の子ら[11]」になったのです。ですから私たちは、罪を犯す度に、単なる父祖たちの不正に戻るのではなく、以前の父祖たちの不正に戻るのです。私たちの父祖たちが二種類いることを証明するために、私は、『詩編』第四十四編から取られた言葉を使いたいと思います。次のような内容です。「娘よ、聞け。見よ。そして耳を傾けよ。お前の民とお前の父の家を忘れよ[12]」。おん父は言われます、「お前の父の家を忘れよ」と。なぜなら(神は)父親として、語っているからです、「娘よ、聞け」と。したがって、私たちの父祖は二種類いるのです。とにかく、あなたは「あなたの父の家を忘れて」ください。そしてもしもあなたが、あなたの以前の父の家を忘れたのに、再び諸々の罪に戻るなら、あなたは、この箇所で言われた諸々の罪を行ったことになるのです。

「彼らは、自分たちの以前の父祖たちの諸々の不正に戻った[13]」。私は、神が私たちの父となる以前には、悪魔が私たちの父祖であったと申し上げました  悪魔が今でも、私たちの父でなければ。私たちはこのことを、ヨハネの公同書簡からも証明してみましょう。その書簡にはこう書かれております。「罪を犯す者は皆、悪魔から生まれた者である[14]」と。もしも「罪を犯す者が皆、悪魔から生まれた者であれ」ば、それはあたかも、私たちが罪を犯す度に、悪魔から生まれると言うようなものであります[15]。悪魔から常に生まれる者は、実に不幸であります。これに対して、神から常に生まれる人は、幸いです。私は、義人がただ一度だけ神から生まれたと言うつもりはありません。かえって義人は、その善い行いに応じて常に生まれるのです。神はその善い行いの中で義人を生むのです。私はあなたに、おん父(なる神)は、おん子をお生みになりましたが、子供の誕生から身を引いたわけではなく、常に子供を生み続けていることを示すことによって、義人についても似たようなことが起こることを証明してみましょう。私たちは、私たちの救い主がどのようなお方であるかを見てみましょう。(救い主は)「栄光の輝き[16]」です。「栄光の輝き」は、一度生まれると、(もはや)生まれないのではありません。かえって、「光[17]」が輝きを作り出すものであるかぎり、神の「栄光の輝き」は生み出されるのです。私たちの救い主は、「神の知恵[18]」です。しかるに知恵は、「永遠の光の輝き[19]」です。したがって、もしも救い主が常に生まれているとすれば  それゆえ(救い主は)、「(主は)すべての丘に先立って私を生んでいる[20]」と言われます。「(主は)すべての丘に先立って私を生んだ」と言っているのではありません。「すべての丘に先立って私を生んでいる」と言っているのです  ですからもしも救い主が、おん父から常に生まれているとすれば、同じようにあなたも、「神の子とする霊[21]」を持っていれば、神は、(あなたの)それぞれの業に応じて、(あなたの)それぞれの思いに応じて、あなたを救い主において、常に生んでいるのです。このように生まれることによって、あなたは、キリスト・イエスにおいて常に生まれる神の子となるのです。キリスト・イエスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン[22]



[1] Jr.11,3.

[2] Jr.11,5.

[3] Jr.11,6.

[4] Jr.11,6-9.

[5] Jr.11,9.

[6] Cf.Is.58,6.

[7] Pr.5,22.

[8] Is.58,6-7.

[9] Jr.11,9-10.

[10] Jn.8,44.

[11] Rm.8,14.

[12] Ps.44,11.

[13] Jr.11,10.

[14] 1 Jn.3,8.

[15] Cf.Com. Jn.XX,16(14), §133;22(20),§176;23(20),§193; In Lc.fragment 156 Rauer(SC 87, p.516).

[16] He.1,3.

[17] Cf.Sg.7,26;1 Jn.1,5.

[18] Cf.1 Co.1,24.

[19] Sg.7,26.

[20] Pr.8,25.

[21] to. th/j ui`oqesi,aj pneu,ma;cf.Rm.8,15.

[22] 1 P.4,11.

 

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