次に私は、全地の金槌を割り砕いたのは誰かを探求いたしますと、私は、モーセが全地の金槌を割り砕いたことができたとは言いません。また彼以前のアブラハムも、刈れ以後のヌンの子ヨシュアも、さらには他のどんな預言者も、そうできなかったと言いたいと思います。では誰が、このような途方もない全地の金槌を割り砕くことができたのでしょうか。それは誰でしょうか。イエス・キリストが全地の金槌を割り、砕いたのです。そして預言者は、聖霊の内にこのことを賞賛して、次のように言っています。「全地の金槌は、どのようにして割られ、砕かれたのか」と。それは先ず割られました。次に砕かれました。そして私は、全地の金槌を割り砕いたのは救い主であることを発見しましたので、福音書に当って見ますと、悪魔が彼に次のように語りかけたときの第一の誘惑を目にします。こうあります。「もしもあなたがひれ伏して私を拝むなら、私はこれらすべてをあなたに与えよう[1]」云々。そして私は、イエスはこの時、全地の金槌を砕いたのではなく、割っただけだと言いたいと思います。しかし悪魔が「(定められた)時まで彼を離れて、その後その定められた時が来て悪魔が再来したとき、全地の金槌は、初めのように割られただけではなく、砕かれたのです。そして全地の金槌は、先に割られた後、砕かれたわけですから、その金槌は、私たちが教会へと導かれ信仰へと進歩するとき、私たち一人ひとりによっても割られることになります。そしてそれは、私たちが完徳の域に至ったとき、さらに砕かれ粉砕されることになります[2]。しかし私たちが完徳に域に達したとき、誰が悪魔を砕くのかで、あなたが思い惑うなら、使徒が義人を祝福して次のように言っているのをお聞きください。「しかし神は、あなた方の足元で、サタンを速やかに砕くでしょう[3]」とあります。この金槌は、生き物です。おそらくそれは今、私たちに対して怒り狂っているでしょう。そして私たちがその金槌について以上のことを明らかにし、しかもそれが私たちによって砕かれたわけですから――実際それは、私たちによって割られただけでなく、砕かれたのです――、それは、逆に、私たちを割り砕こうとしています。実際、それは多くの人を砕きました。なぜならその多くの人は、自分自身に注意を払わず、万全の警戒の下に自分自身の心を守らなかったからです[4]。しかし私たちは、神を信頼し、神の子キリストを信じているのですから、悪魔を恐れてはなりません。神への恐れは、私たちをして悪魔を恐れないようにさせ、悪魔からまったく害を受けないようにさせてくだます。そして神への恐れは、一般的にばかりでなく、私たち自身についても、「どのようにして全地の金槌は割られ、砕かれたのか」と私たちに言わしめるでしょう。

 さらにこの金槌が割られ粉砕されたとき、バビロニアは滅亡に到ります。先ず混乱の町が破壊されることによって[5]、全地の金槌が割られ、砕かれるのではありません。それゆえ預言者は、卓越した語順をすばらしい仕方で用いて、言っているのです。「どうして全地の金槌は割られ、砕かれたのか。どうしてバビロニアは、滅亡したのか」と。預言者は、先ず最初になされたことを語り、第二になされたことを続いて述べます。そしてこのことは、聖書の言葉一つひとつを通して観察されるべきです。

 では、いつ、バビロニアは滅びに到るのでしょうか。私の魂から一切の混乱が滅ぼされたとき、子どもの死も妻の他界も、もはや私を混乱させることがなくなったとき、私を苛立たせたり、悲しみや怒り、欲望や快楽へと私をかき立てるものがなくなったとき、私を強め固める理性を手に入れて平静の状態を維持したとき[6]、「バビロニア」、すなわちあらゆる混乱「が滅ぼされた」と言われていることが私に起こるのです。

 さらにそのこと、すなわち全地の金槌が割られ砕かれること、そしてバビロニアが滅ぼされることは、諸国の民が金槌とバビロニアに勝るときに、行われます。実際、こう書かれています。「諸国の民の中に、あなたに勝る者たちがいる[7]」と。実際、バビロニアよ、諸国の民から来た人たちがあなたに勝るのです。金槌よ、彼らがあなたに勝るのです。そしてあなたは、割られ、砕かれるのです。いつそれが行われるのでしょうか。私の主イエス・キリストが到来し、福音が諸国のすべての民に宣べ伝えられたとき[8]、父と子と聖霊は、バビロニアと全地の金槌とに対して勝るのです。そして「諸国の民の中に、あなたに勝る者たちがいる」と書かれていることが成就するのです。

 「そして、バビロニアよ、あなたは捕えられるが、それを知らないだろう[9]」とあります。どうかバビロニアが私たち一人ひとりによって捕えられますように。ところでバビロニアの捕縛は、前に述べたことから理解できます。それはバビロニアが、土台から掘り崩され、転覆され、荒らされて、私たちの内に混乱の一欠けらも残されなくなったときです。

 「そして、バビロニアよ、あなたは捕えられるが、それを知らないだろう。あなたは見つけられ、捕まえられた。なぜならあなたは、主に逆らったからだ[10]」とあります。ではバビロニアだけが主に逆らったのでしょうか。むしろ諸国のすべての民が、創造主を捨てて偶像を崇拝したとき、主に逆らったのではないでしょうか。平和の幻視であるエルサレム[11]に敵対するすべての魂は、象徴的に、バビロニアと言われるのではないでしょうか。それゆえまさに、聖人たちがエルサレムにいました。そして罪人たちはバビロニアにいました。そしてもしもエルサレムの人たちが罪を犯したなら、彼らはバビロニアに送られます。逆にもしも彼らがバビロニアに身を置いて、悔い改めて回心したなら、彼らは再びエルサレムに戻ってくるのです。

 それゆえ「バビロニアは捕えられます。そしてそれを知りません[12]」。実に「バビロニアは、神の律法に従わないし、それに従うこともできないのです[13]」。そしてバビロニアは見つけられました。そして見つけられ縛られました。それが見つけられ縛られたのは、主に逆らったからです[14]



[1] Mt.4,9.

[2] キリスト者の進歩によって悪魔の力が弱められることについては、cf.Hom.Jos.XV,6; Com.Jn.VI,54(36), ss.281-283. その力は、最後には滅ぼされる(Hom.Jos.VIII,4)

[3] Rm.16,20.

[4] Cf.Pr.4,23.

[5] 艱難の町とは、バビロニアのことである。Cf.Hom.Jr..XIX, 14.

[6] この状態は、ストア派の理想である。

[7] Jr.27,23-24.

[8] Cf.Mt.28,19.

[9] Jr.27,23.

[10] Jr.27,24.

[11] Hierusalem, visio pacis; cf.Hom.Jr.IX, 2, 3; XIII, 2, 9.

[12] Jr.27,24.

[13] 「それを知りません」の原語は、non cognoscitであるが、「できない」という意味もある。ここでは、「できない」と言う意味で筒か割れているが、「何が」でいないのかは、不明である。直後の箇所では、「律法に従うことはできない」と言われているが。

[14] Jr.27,24.

 

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