「あなた方は、バビロニアの不正の中で投げ捨てられてはならない。なぜならその報いの時が、主から来たからだ[1]」とあります。(神は)驚くべき意味において、罰を受ける者のゆえに諸々の責め苦が科せられると言っています。実際、もしも誰から報いを受けなかったら、その人は罰を受けなかったままです。私は、十二預言書に次のように書かれていることを、しばしば語ったのを思い出します[2]。すなわち「あなた方の娘たちが淫行を行っても、私は彼女たちの許に訪れない。あなた方の嫁たちが姦淫を犯しても、私は彼女たちの許に訪れない[3]」と。したがって、ある人たちが考えているように、神は怒って、罪人たちを罰するのではありません。むしろこう言ってよければ、神から諸々の責め苦を受けないことが、大きな怒りなのです[4]。実際、罰を受ける人は、たとえ神の怒りと呼ばれるものによって責められるとしても[5]、矯正されるために罰せられるのです。ダビデは、「主よ、あなたの怒りの中で私を咎めないでください。またあなたの逆鱗の中で私を責めないでください[6]」といっています。しかしあなたが咎めるとしても、「逆鱗の中ではなく、裁きの中で私たちを[7]」咎めてくださいと、イザヤは言っています。さらにあなたは、神の約束によって、ある人たちが責められるのを見出すでしょう。なぜなら罪を犯したキリストの子らに罰が約束されているとしても、憐みは拒まれていないからです。こう書かれています。「もしも彼の子らが私の律法を捨て、私の判断の内に歩んだなら、もしも彼らが私の正義を汚し、私の掟を守らなかったなら、私は杖をもって彼らの諸々の悪行に訪れ、鞭をもって彼らの諸々の不正に訪れる。しかし私は、私の憐みを彼らから散らさない[8]」。あなたはこれらのことを考慮に入れたら、今にいたるまで数々の罪を犯しているのに罰せられない人が、どうして、いまだに罰に値しないのかお考えください。実に神の訪れは、神が訪れた人の諸々の責め苦によって明示されるのです。しかし罪を犯しながら責められない人に、罰として何が起こるのか、私は知りません。



[1] Jr.28,6.

[2] Cf.Frag.Ex.X,27(Philocalia, XXVII,4); Hom.Ex.VIII,5.

[3] Os.4,14.

[4] Cf.Hom.Jr.VI,2; Hom.Ex.VIII,5.

[5] 「神の怒り」については、cf.Hom.Jr.XX,1.

[6] Ps.6,2.

[7] Jr.10,24.

[8] Ps.88,31-33.

 

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