以上のことを述べましたのは、「なぜならその報いの時が、主から来たからだ[1]」と書かれていたからです。次に、「()ご自身が、彼に報いを返すだろう[2]」という言葉が続きます。神は、奉仕者たちを通してバビロニアに、相応しい報いを返すのではありません。神ご自身が相応しい報いを返すのです。私は、「ご自身」という名詞の付加について[3]、あることを申し上げたいと思います。確かに「()ご自身が、彼に報いを返すだろう」と言われています。すべての人に対して、神ご自身が、相応しいものを返すのではありません。罰する場合であれ、苦痛を通して癒す場合であれ、神が他の者たちを通して(その相応しい報いを)返す人たちがいます。実際、詩編にこう書かれています。「(主は)彼らに、ご自分の怒りの逆鱗を、逆鱗と怒りと苦悩を送る。最悪の天使たちを通して[4]」。これらの人には、神ご自身が(相応しい報いを)返すのではありません。神は、彼らの報いのために、最悪の天使たちを奉仕者としてお使いになるのです。おそらく神は、他の人たちに対しては、悪い天使たちを通してではなく、善い天使たちを通して(相応しい報いを)返すかもしれません――諸々の罪のゆえに罰せられる人たちに対するようにではなく。これと似たようなことを、あなたは聖書を調べれば、たくさん見出すでしょう。しかし目下のバビロニアの場合のように、奉仕者たちの役務を退けて、神ご自身が、報いを返すときがあるのです。私は、もしも黙るなら、私には隠れているように思われるある不明瞭な事柄を明白な箇所に残すのではないかと案じています。しかしここは勇気をもって、少しばかり触れてみなければなりません。傷が簡単ですばやく癒せるなら、医者は、自分の僕を遣わします。医者は弟子を遣わして、彼を通して弱っている人を癒します。なぜなら傷は大きくないからです。また、治療を受ける人が切断や切除を必要としているのに、医者がみずから治療に向かうのではなく、治療のできる弟子を一人選んで、彼を奉仕者として使う場合が、しばしばあります。しかし傷口が癒しがたく、死に瀕した身体に壊疽が広がり、状態がひどく悪化してしまい、医術の知識に関して既に師匠に近づいている僕たちや弟子たちでは手に負えず、師匠自身の手が必要とされる場合には、偉大な医者がみずから腰の帯を締めて、ぞっとするような傷の切除に馳せ参じるでしょう。同じように、罪が小さい場合には、神がみずから、(相応しい報いを)罪人たちに返すことはなく、むしろ他の奉仕者たちを使います。これに対して、自分の悪意のゆえに思い傷を負った今のバビロニアのように、途方もなく大きな病が人間を――その人間の過失を通して――捕えている場合には、神ご自身が、その報いのために急いで向かうでしょう。あなたは、もしも(聖書を)調べますなら、エルサレムについても、何かしらこれと似たことを見出すでしょう。確かにそれに似たことは、諸々の預言者の後でエルサレムに起こったのです。なぜならエルサレムは、キリストに対して謀を企てたからです。



[1] Jr.28,6.

[2] Jr.28,6.

[3] in additamento pronominis in eo quod scriptum est <<ipse>>.

[4] Ps.77.49.

 

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