第一の節の内容[1]は、以上で終わりです。私たちは、他の言葉も考察してみましょう。「バビロニアは、主のみ手の内にある金の杯、全地を酔わす。諸国の民はそのぶどう酒を飲んだ。それゆえ諸国の民は揺り動かされた。そしてバビロニアはにわかに倒れ、砕かれた[2]」とあります。バビロニアの偽りの杯によって人々を欺こうと望んだネブカドネザルは、「土の器[3]」で自分の準備した飲み物を調合したのではありません。また彼は、それより少しましな鉄や青銅や錫の器で、あるいはそれらにまさる銀の器で飲み物を調合したのではありません。ネブカドネザルは、金の器を選んで、その中で飲み物を調合したのです。その目的は、金の優美さを見た人が、光り輝く金属の美しさに喜び、その美しさにすっかり見とれてしまい、その内部に何が隠れているか考えずに、ネブカドネザルの杯とは知らずにその杯を取って飲むようにするためです。もしもあなたが、諸々の最悪の教説の死をもたらす言葉が、どのような言葉遣いをするか、どれほど優美な雄弁を呈するか、どれほど巧みに物事を明快に説明するかに注意すれば、そして弟子たちの間でもっとも優れた詩人と考えられている人たちの一人ひとりが金の杯を準備して、その金の杯に偶像崇拝の毒、破廉恥な言説の毒、人間の魂を殺す諸々の学説の毒、覚知という偽りの言葉の毒[4]を注ぎ込むのを知ったなら、目下の箇所で言われている金の杯を、あなたは理解するでしょう。しかし私のイエスは、これと正反対のことをします。実際、イエスは、金の杯は悪魔の杯であることを知っていて、ご自分の信仰に到った人が、キリストの杯は(ネブカドネザルの)残した杯のようであると考えて、その材料の類似を通して誤謬を畏れ抱くことを警戒していました。そこでイエスは、「私ちがその宝を土の器の中に持つ[5]」ように取り計らったのです。しばしは私は、言葉の美しい装飾の中に金の杯を見ました。そして私は、諸々の教説の毒を考えることによって、バビロニアの杯を理解しました。



[1] primi vapituli continentia

[2] Jr.28,7-8.

[3] Cf.2Co.4,7.

[4] venenum falsi nominis scientiae;ギリシア語の原語は不明だが、旧約の神を斥けるグノーシス(覚知)主義の異説のことであろう。

[5] 2Co.4,7.

 

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