またそれぞれの草は、体の健康のためであれ、その他どんなもののためであれ、効力を持っています。しかしそれぞれの草がどんなものに有益なのかを、すべての人が知っているわけではありません。もしも(その)知識を持っている人たちがいれば、その人たちは、もろもろの植物に関わって、いつその草を採り、体のどこにそれをあてがい、どのように準備すればその草が(それを)必要とする人に利益を与えるのかを知っている人たちです。これと同じように聖なる人は、いわば霊的な園芸師のようなものです。彼は、聖なる文字から、ほんのわずかな一点も、取るに足らないほんの小さな部分も[1]見逃さずに拾い上げ、文字の効力を発見し、何にそれが有益であるか、そして、文字のどれ一つとして不要なものでないことを見出すのです[2]。あなたがこのことに関して、第二の例を聞きたいとお望みであれば、私たちの身体のそれぞれの肢体は、製作者である神によって、何らかの業のために造られています。しかし肢体のそれぞれが、その取るに足らない部分に到るまで、どのような力と効果を持っているかを、すべての人が知っているわけではありません。しかし医者たちの中で解剖に従事した人たちは、その肢体のそれぞれが、その細部に到るまで、何のために、摂理によって有益なものとされているかを言うことができます。そこでどうかあなたは、聖書のすべてが、このようにして草であり、み言葉の一つの完全な体であることをご理解ください。もしもあなたが聖書の園芸師でもなく、諸々の預言の言葉の解剖者でもないなら、書かれた事柄の何かは不要なものであるとお考えにならないでください。むしろあなたは、書かれている事柄の理拠を見いだすことができないからといって、聖なる文字を責めるよりも、あなた自身を責めてください。

 以上のことを私は、聖書全体に一般的な仕方で有益なものとなるように、序言として述べてみました。それは、(聖書の)読書に専念しようとする人たちが、文字を吟味検討せずに放置しないようにさせるためです[3]



[1] e[kaston ivw/ta kai. e[kaston to. tuco.n stoicei/on

[2] Cf.Hom.Jr.L.II,2.

[3] 同様の勧告は、詩編注解第1巻の序文にも見られる(PG 12, 1081 B)

 

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