朱門岩夫

イエスの祈りと宣教

1997年6月発表

最終更新日19/01/30


 

『マルコによる福音』

第1章第35節~第39節

 

本文

35 イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて、人里離れたところに出かけ、そこで祈っておられた。36 シモンと仲間たちが探しに行き、37 見つけ出して、「みんながあなたを探しております」と言った。38 イエスはお答えになった。「いっしょに近くのほかの町や村に行こう。わたしはそこでも福音を宣べ伝えなければならない。わたしはこのために出てきたのである」。39 こうしてイエスはガリラヤじゅうをめぐり歩き、ほうぼうの彼らの会堂で福音を告げ知らせ、また悪霊を追い出された。

 


 

評注

ここに述べられたみ言葉は、フランシスコ会訳聖書の小見出しにあるように「イエスの祈りと宣教」について簡潔に描写しておりますが、しかし注意深く読んでみますと、イエスと使徒団との関係、祈りの内容と目的、そして宣教の動機についても、とても意味深いことをわたしたちに伝えているように思われます。また多少一般化して述べれば、イエスの足跡をたどりながら、イエスの証と宣教活動のために営まれるキリスト教的共同生活についても示唆に富んだ発言をしているように思われます。

 

イエスは、宣教活動に乗り出す前に、「朝早く、まだ暗いうちに、人里離れたところに出かけ、そこで祈っておられました」。「朝早く、まだ暗いうちに」とはいつ頃のことでしょうか。ギリシャ語では、直訳すると「朝早く、まだとても暗い夜のうちに」ということになっています。ですからイエスが祈るために起きたのは、夜明け前、まだ暁の光が東の空にかからない宵のうちでした。

 

やがて「シモンと仲間たちが」イエスを「探しに」きました。「シモンと仲間たち」という言葉は、正確にギリシア語から訳すと、「シモン及びイエスと一緒にいた者たち」ということになります。ここでイエスと弟子たち、そしてシモンと他の弟子たちの関係が明らかにされています。まず弟子たちがイエスと一緒にいる者たちであることがわかります。キリストの弟子になるということは、キリストといつも一緒におり、キリストともに行動することなのです。次に、シモンが、弟子たちの先頭を行く代表者となっていることが判ります。聖書の他の個所を読んでみましても、シモンは、いつも他の弟子たちに先立ってイエスに発言しております。シモンは、使徒団の頭として他の使徒たちの歩みを方向づける指導者としての役割を担っているのです。しかしそうは言っても、シモンは他の弟子たちとはあらゆる意味で別格であったというわけではありません。シモンは弟子たちの先頭を歩きながらも、弟子たちと共同してイエスを「探し」、弟子たちと共同で「みんながあなたを探しております」と言ったのです。事実、ここに使われている言葉をよく検討してみますと、イエスを「探しに行き、見つけ出して、『みながあなたを探しております』と言った」と訳されているギリシア語原文の主語は、単数形ではなくて、使徒団全員を表す複数形となっているのです。

 

シモンを使徒団の頭として使徒たちは一致して「イエスを探しました」。この「この探し出す」という日本語訳は、ギリシア語原文に含まれるすべての意味を言い尽くしてはいないように思われます。ラテン語訳の方がこの個所では正確です。ギリシア語原文もラテン語訳もともに、「追跡する」「追い求める」「迫害する」という言葉を使っており、それは、死に追い詰めるまで追求するという熱狂的な真剣さを伴っています。弟子たちは、イエスを必死の思いで捜し求めていました。なぜでしょうか。(カファルナウムの)すべての人たちがイエスを捜し求めていたからです。使徒たちの職務は、人々の要求に応えることにあります。そして弟子たちは、すべての人の必要に応えるためにイエスを必死の思いで捜し求めました。弟子たちにとっては、すべての人の要求に応え、その要求をイエスに取り次ぐことが第一の務めだったのです。イエスなしでは、かれらは何もできません。かれらはイエスを捜し求めたのです。ではその必要とは何でしょうか。次の個所を読んでみましょう。

 

弟子たちの熱烈な要望に動かされたイエスは、こう答えております。「いっしょに近くのほかの村や町に行こう。わたしはそこでも福音を述べ伝えなければならない。わたしはこのために出てきたのである」。イエスにとって宣教とは、人々の願いに応え、使徒たちといっしょに福音を宣べ伝えることでした。またイエスの宣教活動が、イエスによる単独行為ではなく、使徒たちと「いっしょに」という団体的性格を帯びていることにも注意しなければなりません。宣教は、イエスが率先してなさるものであるとはいえ、弟子たちとの共同的行為なのであり、弟子たちはイエスの福音宣教の業に協働するように招かれているのです。これで、キリストの証宣教使命のために共同で営まれるキリスト教的共同生活が、イエスの意向に沿うものであることがお分かりでしょう。しかし共同生活それ自体を営んだり楽しんだりすることがキリスト教的共同生活の目的ではないことを忘れてはなりません。宣教のためにキリスト教的共同生活は営まれるのです。

 

ここで、「わたしはこのために出てきたのである」という言葉の重要性を見逃してはなりません。この一文だけでは、イエスは福音宣教のためにこの世に出てきたと解されます。ラテン語訳はその意味で取っているように思われます。ところが、ここで使われているギリシア語と、先にイエスが「人里離れたところに出かけ、そこで祈っておられた」と言われるときに使われる「出かけた」というギリシア語を比べてみますと、両者は同じなのです。これはつまり、イエスが「ここに出てきた」のは、福音宣教のために祈るためだったということです。イエスにとって福音宣教には、祈りが先行しなければなりませんでしたし、かれはいつも祈っておりました。イエスは、すべての人々の要求に応える福音宣教のために人里離れたところに出て祈ったのです。イエスは、宣教のために朝早くまだ暗いうちに起き上がり、おん父なる神に祈り、その祈りのなかでこの日一日の宣教生活を整えていたにちがいありません。

 

次に目下わたしたちが手がけている聖書のみ言葉によれば、イエスの宣教活動の及ぶ範囲が示されております。イエスは「すべての人たち」の願いに応え、「ほかの町や村」にも行き、「ガリラヤ全体」に及ばねばなりませんでした。イエスは、すべての人々の求めに応じて福音を述べ伝え、人を不幸に陥れる悪霊を追い出すために、「ほかの町や村」、「ガリラヤ全体」に赴かねばなりませんでした。やがてこの福音宣教は、使徒たちとその後継者たちの助けを借りて地の果てにまで及ぶことでありましょう。

 

終わり

 

なお、表題の誤りを、読者(M氏)の懇切なご指摘により、訂正いたしました。ここに、お礼を申し上げます。