「そして、次のことが起こった:モーセが自分の諸々の手を挙げると、イスラエルは優勢になっていた。しかし、彼が自分の諸々の手を下ろすと、アマレクが優勢になっていた[1]」。ですから、モーセが自分の諸々の手を上に伸ばすとき、さらに優勢になって勝ちます。しかし、モーセが自分の諸々の手をもはや上に伸ばさず、それらが下に降ろされていると、その民はアマレクによって打ち負かされました。実にその民は、次のように言われている人たちです:「もしもあなた方がモーセを信じていたなら、私をも信じたはずだ[2]」、そして、「見よ、あなた方は私を殺すことを望んでいる。あなた方は、律法を行っていない[3]」と。実際、律法と律法の諸々の業が、「自分たちの義を立てようと求める一方で、神の義に服さなかった[4]」人たちの許で止むと、モーセの諸々の手は降ろされ、不信仰が優勢になり、民は打ち負かされます。

しかし、「ナダブとアビフとエルアザル[5]」が、民を裁くために、諸々の宿営の中に残されています。さらに、エトロ自身も、彼らと共に民を裁くために残されています[6]。ところがイエスは、残されていません。彼は、モーセに従って山の中に行きます――次のような驚くべき言葉の付加を伴って:「彼はモーセに付き添っていた[7]」とあります。彼は、どのようにして「付き添っていた」のでしょうか。第二の人してでなく、劣った人としでなく、援助者と保護者として、です。

しかし、次のことはどのようなことでしょうか:(イエスの)名前が最初に言及されたとき、彼の父の名前は示されませんでしたし、第二のときも、第三のときもそうでした。しかし、彼の父が「ヌン」と名づけられたとき、彼は、イエスではなく「ホセア」と言われています[8]――それはどういうことでしょうか。実際、探索のために派遣された人たちの間では、彼はホセアと言われています[9]。そして、おそらく――私に思われるには――探索者の役務の故に、彼は、イエスではなくホセアと言われ、しかも「ヌンの子[10]」と名づけられているのでしょう。しかし彼が、役務を果たして戻ってきました;そして、すべての人たちが怖じ気づいていたとき、彼だけが気落ちしていた人たちを勇気づけ、彼だけが民の絶望を取り除きます[11];そのとき彼は、モーセによってイエスと名づけられます。ヌンの子とは言われません。そして、モーセは彼に向かって言いました:「あなたは、軍勢を導いて、アマレクと対戦しなさい[12]」と。そして、私たちは次のことを見きわめますと、彼の偉大さを見て看ります:すなわち、モーセの顔の変容の中で、イスラエルの子らの一切の視覚が曇り、誰も彼の顔の面を直視することができなかったのに、イエスはその面を観たばかりでなく、幕屋の諸々の内部の中で諸々の神秘を粘り強く覚知し続けました[13]



[1] Ex.17,11.

[2] Jn.5,46.

[3] Jn.7,19.

[4] Rm.10,3.

[5] Ex.28,1.

[6] Cf.Ex.18,13-27.

[7] Cf.Ex.24,13.

[8] Cf.Nb.13,16.

[9] Cf.Nb.13,8.

[10] Cf.Nb.13,16.

[11] 「絶望を勇気づける/立て直す」が直訳。さすがに訳者(朱門)は意訳した。

[12] Cf.Ex.17,9.

[13] Ex.33,11.