では、それらすべての事柄は私たちの視野をどこに向けているのでしょうか――勿論それは、この本が私たちにヌンの子を示すよりも、私の主なるイエスの諸々の秘蹟を私たちのために描いているというということに(私たちの視野を向けています)。実際、モーセの死後、命令を引き受けたのは彼です。彼こそが、軍勢を導き、アマレクと対戦しました。そして、その書において、拡げられた諸々の手によって描かれていることは、「彼が、諸々の支配と諸々の権能を自分の十字架によって打ち倒し、自分自身の中でそれらに勝利する」ことです[1]

さて、神の僕・モーセは亡くなりました。すなわち、律法と律法的な諸々の定めはもう止みました。あるいは、それらの事柄が私によって表明されても、そのことがあなたにとって権威に乏しく見えるなら、あなたは使徒の権威に従って下さい。彼は次のように言っています:「妻は、夫が生きている間は、律法に拘束されています。そして、もしも彼女が別の男と一緒にいたら、彼女は姦通者と名づけられるでしょう。しかし、もしも彼女の夫が死んだなら、彼女は、夫の律法から解放されます。その結果、彼女は、他の男と一緒にいても、もはや姦通者ではありません[2]」と。疑いもなく(使徒は)、モーセの律法の下に保持されていた魂――それについて(使徒は)、「夫が生きている間は、律法に拘束されている[3]」と言っています――を夫人と名づけています。しかし、もしも彼女の夫が死んだなら――彼は疑いもなく律法です――、(律法に)服従させられていたように見えた魂は(律法から)解放されたと、(使徒は)言っています。したがって、イエスを信じる人たちが姦通の罪を被らないようにするために、律法は必然的に死ななければなりません。



[1] Cf.Col.2,14.

[2] Cf.Rm.7,2-3.

[3] Cf.Rm.7,3.