ですから私の救い主なる主は、指揮権を受け取りました。そして――もしも適切に見えるなら――私たちは、モーセの諸々の行いをイエスの統帥権と比較してみましょう[1]

モーセが民をエジプトの地から導き出すとき、諸々の民の中にいかなる秩序もなく、祭司たちの中にいかなる式次第もありませんでした。彼らは、海の水、甘味をまったく含まない塩辛い水を過ぎ越しました。そして、「左右の水は、彼らにとって壁になりました[2]」。私たちは、それらの事柄が指導者モーセによって行われたことを知ります。

しかし、私の主が軍勢を導くとき、存在する諸々の事柄が既に当時に影として素描されていたことを、私たちは見ます。「祭司たちは前進します。契約の箱は、祭司たちの諸々の方の中で方の中で運ばれます[3]」。しかし、海や塩辛い波も決して登場しません。しかし、私のイエスなる主の指導によって、私はヨルダン川の畔の来ます。しかも私は、逃走の混乱の内に来るのでもなく、恐怖におびえて来るのではありません。むしろ私は、祭司たち――彼らは、神の律法と神的な諸々の文字が保存されている契約の箱を、自分たちの諸々の首と諸々の方によって運びます――と共に来ます。私は密かな沈黙と共にヨルダン川の中に入るのでなく、群衆たちの諸々の歌――それらは、或る神秘的な神的なものを歌います――の中でヨルダン川の中に入ります――天的な角笛の宣教に進むために。あちらでは次のことが言われています:「水は二つの部分に分けられました。そして、水の一つの壁が右側に、他の(壁が)左側に作られました[4]」。しかしこちらでは、「分断する生け垣の媒体を壊すために来た方が、両者を一つにしました[5]」。実に、一方からの水が立ち上げられ、他方は海の中へと流れ去りました[6]

次に彼は、「あなた方はあなた方のために、道のための諸々の食べ物を準備しなさい[7]」と言っています。そして今日でも――もしもあなたが聞くなら――、イエスはあなたに言っています:「もしもあなたが私に従うなら、あなたはあなたのために、道のための諸々の食べ物を準備しなさい」と。実のところ、諸々の食べ物は、将来の道のために、頼りになる携帯品として私たちに付き添う諸々の産物です。しかし、神的な諸々の文字を怠惰に、そしていわば通りすがり[8]読むことは適切ではありませんから、私たちは次のことを見てみましょう:穀物を持っていない彼らはどこから諸々の食べ物を準備すべきだと、彼は命令しているのでしょうか。実にマナが、彼らにとって食べ物でした。しかし、私たちがその川の諸々の土手を過ぎ越すと、「マナは絶えました[9]」。そしてそれ故、もしも一人ひとりが自分のために諸々の食べ物を準備しなかったなら、その人は、約束の地の中に入るイエスに従うことはできないでしょう。しかしあなたは、彼が最初に約束の地の中でどのような諸々の実りを採るかをご覧下さい:「そのとき彼らは最初に、諸々の棕櫚の地域からの諸々の実りを食べた。そして、彼らは最初に諸々の無酵母パンを食べた[10]」と、(聖文書は)は言っています。ですからあなたは、次のことを見ます:最初にこの世の道を外れた私たちに――もしも私たちが正しくイエスに従うなら――最初に勝利の棕櫚が現れます。そして、「悪意と邪悪の酵母」が捨て去られることによって、「誠実さと真理の無酵母パン[11]」が私たちに準備されます。

しかし、私たちのイエスは、探索者たちをエリコ人たちの王の許に派遣します。そして彼らは、遊女からの歓待によって受け入れられます。しかし、イエスによって派遣された探索者たちを受け入れたその遊女は、もはや遊女とならないようにするために受け入れました。そればかりか私たち各自の魂も、肉の諸々の欲望と情欲の中に生きている限り遊女です。しかし、(魂は)イエスの探索者たち――「彼の道を準備するために彼がご自分の顔の前に派遣したみ使いたち[12]」――を受け入れました。しかし、一つひとつの魂が彼らを信仰から受け入れたなら、(一つひとつの魂は彼らを)諸々の低い場所の中でも、諸々の劣った場所の中でもなく、諸々の高く崇高な場所の中で(受け入れました)。なぜなら、私たちは諸々の低い地的な場所で主なるイエスを受け入れたのではなく、父から進み出てこられ、諸々の天から来られた方として彼を受け入れたからです。



[1] 「指揮権」(principatum)、「統帥権」(primatum)。第一節にも出てきたが、通常、訳者(朱門)は、前者を「主権」と訳している。しかし後者については、他の著作の中で使われている記憶は訳者(朱門)にはない。後者は、(第一節の)文脈上、「首位権」とも訳せる。

[2] Cf.Ex.14,22.29.

[3] Jos.3,6.

[4] Cf.Ex.14,22.29.

[5] Cf.Ep.2,14.

[6] Cf.Jos.3,16:訳者(朱門)は直訳した。聖書の引用箇所を参照すれば明らかなように、「(契約の箱を担ぐ祭司たちがヨルダン川に入ると)、上流からの水は(壁のように)立ち上がり、下方の水は(アラバの)海に流れ去った」(云々)となる。救い主は、此岸と彼岸を結ぶ架け橋になった。

[7] Cf.Jos.1,11.

[8] 直訳すれば、「そして、いわば過越の中で」となる。ルフィヌスあるいはオリゲネスはしゃれを述べているのだろうか。

[9] Jos.5,12.

[10] Jos.5,11.

[11] 1Co.5,8.

[12] Mc.1,2.