第十講話

ギブオン人たち奸策

 「私の父の家の中に、多くの住居がある[1]」と神のみ言葉は言っています。そればかりか、使者たちの復活は、復活する者たちの等しい栄光を持たないでしょう。「鳥たちの肉は別であり、家畜たちの肉は別であり、魚たちの肉は別です。そして、諸々の天的な物体があり、諸々地的な物体があります。太陽の栄光は別であり、付きの栄光は別であり、諸々の星の栄光は別です。星は栄光の中で(他の)星とは異なります。使者たちの復活も同様です[2]」。

ですから、救いに至る者たちの多くの違いが示されています。それゆえ、今の場合も、ギブオン人たち――彼らの歴史が朗読されました――も、救われるべき人たちの或る小部分であると、私は思います。とはいえ、何らかの印の刻印なしに救われることはありません。実際あなたは、どのようにして彼らが、民への従順と神の祭壇の奉仕のために、「木の伐採者たちや水の運搬者たち[3]」になるように断罪されるかを見ます。なぜなら彼らは、奸策と狡知をもってイスラエルの子らの許に近づいたからです――「諸々のボロ服と古い諸々の履き物を身に着け、古びたパンの食べ物を携えつつ[4]」。ですから彼らは、自分たちのすべての古めかしさと共にイエスの許に来て、自分たちが救われること、ただそれだけを彼から祈り求めます。

彼らの形象の中に何かそのようなことが示されているように私には見えます。教会の中には、次のような人たちがいます:彼らは、確かに信じ神への信仰を持ち、すべての神的な諸々の掟に満足しています。彼らは、神の僕たちにも敬意を払い、彼らに奉仕することを望みます。そればかりか彼らは、教会の美化や奉仕職のために十分に迅速で意欲的です。しかし彼らは、自分たちの諸々の行為と私的な暮らしの中で、十分に卑猥で、諸々の悪徳に包まれていて、「自分たちの諸々の行為と共に古い人間をまったく取り除かず[5]」、古い諸々の悪徳と諸々の卑猥に巻き込まれています。それはちょうど、彼ら(ギブオン人たち)が、神を信じ、神の僕たちや教会の祭儀に対して献身しているように見えるにも関わらず、「諸々のボロ服と古い諸々の履き物」で身を守っていて、諸々の品行の中で、いかなる改善も刷新も添えていないようなものです。ですから、彼らには、私たちの主なるイエスは、救いを許し与えますが、彼らの救いはある意味で、不面目の印を避けません。

『牧者』と呼ばれる小著の中にも、それらの事柄に関して似た形象が描かれています。実際それは、次のように言っています:楡と呼ばれる或る木があって、それは実を結ばないが、非常に多くの実を結ぶブドウの木を支えると。そして、それは、ブドウの木にとって支柱であり、その諸々の力によってブドウの木は繁茂し、非常に多くの実を結んだり保ったりすることができます。ですからそれによって、楡も、実を結ばない木ですが、豊穣なブドウの木に奉仕することから、必要で有益であるおうに見えます。ギブオン人たちの中にも何かそのようなことを、あなたは理解して下さい。彼らは、自分たちの諸々の行為とともに古い人間を脱ぎ捨てませんでした。しかし彼らは、聖なる人たちに奉仕し仕え、有益さの幾分かを示しています。そして彼らは、そのよう或る秩序の中で、イエスから誓いの付加を伴って救い受け取ります。

私としては、ギブオン人たちの秩序の中で救いを獲得したくありませんでしたし、「木の伐採者たちや水の運搬者たち[6]」の中で数えられたくありませんでした。むしろ私は、イスラエル人たちの間で嗣業地を獲得し、約束の土地の分け前を受け取ること(を望みます)



[1] Jn.14,2.

[2] 1Co.15,39-42.

[3] Cf.Jos.9,27.

[4] Cf.Jos.9,4-5.

[5] Col.3,9.

[6] Cf.Jos.9,27.