もちろん、この箇所を読む異端者たちが中傷を行うのが常であることが注目されねばなりません。彼らは、古い契約を受け入れず、次のように言います:「ヌンの子イエスが、人間性の一欠片も持っていなかったを、あなたは見るべきである。なぜなら彼は、自分のところに諸々の嘆願をするために来た人間たちに救いを譲与したのに、彼らに不面目の印と隷属の頸木を課したからである」と。諸々の神的な文書の中で余り教育されていない魂が、もしもそれらのことを聞くなら、その魂はたちどころに弱められ、危険に晒されて、普遍的な信仰を捨てかねません。なぜなら彼らは、彼らの諸々の陰謀を理解しないからです。実にイエスは、彼らの信仰の尺度に従って、彼らに対して適切な裁きを持ちました。

他方、遊女ラハブは、完全無欠の信仰をもって、彼女の一切の家とともに信じ、この上なく充実した献身を持ってイスラエル的探索者たちを受け入れました[1]。そのため彼女は、完全無欠に民の交わりと社会の中に受け入れられました。そして、彼女について次のように書かれています:「彼女は、今日に至るまで、イスラエルの子らの脇に置かれている[2]」と。それに対して、イスラエル的民の諸々の交わりを愛するよりも、みずからの滅びの恐れによって怯え、陰謀と欺瞞とともにイエスの許に近づいたあの人たちは、どうして、諸々の奴隷的欺瞞において、命の自由と御国の交わりに値する者とされうるでしょうか。

最後にあなたは、彼らに対して、イエスによって彼らの精神の卑しさに相応しい状態が経綸されたことを知りたいですか。彼らは言います:「我々は、主が、紅海を通して、そして、荒れ野の中で、私たちにどれほど偉大な数々の事柄を行ったかを聞いた[3]」。そして彼らは、それらのことをみずから聞いたと言い、数々の神的な驚異について知っていると告白するにもかかわらず、信仰に相応しいことを何一つ、それほど偉大な諸々の力の賞賛に値することを何一つ行いませんでした。 そしてそれ故イエスは、彼らの信仰の中の狭く小さい意図を見て、彼らが救いに相応しくなるように、彼らに対してきわめて正当な節度を保ちます。彼らがきわめて小さな信仰を告げたにもかかわらず、彼らの信仰は、諸々の業のいかなる付加によっても高貴にされないがうに、御国の全体や自由の全体を受け取りません。なぜなら、「諸々の業のない信仰は死んでいると見なされる[4]」と、使徒ヤコブは告げているからです。



[1] Jos.2,18s.

[2] Jos.6,25.``

[3] Jos.9,9-10.

[4] Jc.2,17.26.