しかしながら、そのような諸々の形象の諸々の投影からどれほどのことを私たちは教えられるかを、知るべきです。もしも、私たちの中に、彼らの信仰は次のことだけを持つところの人たちがいるなら――すなわち、教会に来て、自分の頭を司祭たちに下げ、諸々の務めを果たし、神の僕たちを尊敬し、祭壇や教会の美化に何らかの寄与をするだけで、自分たちの諸々の品行を陶冶し、諸々の行為を改善し、諸々の悪徳を捨て去り、貞潔を育み、怒りを和らげ、貪欲を抑え、強欲を抑え、諸々の悪口と諸々の愚言や諸々の下品と諸々の失望の諸々の毒を自分の口から取り除かない人がいるなら――そのような人たち、みずからを改善しようと望まず、極みの老年に至るまでそれらの中に留まる人たちは、主なるイエスから、ギブオン人とともに(同じ)分け前と境遇を分け与えられるはずであると知るべきです。しかし、むしろ私たちは、神のみ言葉の大使を果たしているあなた方、兄弟たちにお願いします:改善されるべき可能性をまだ私たちが持っている限り、私たちは努力し、諸々の太古の汚れと諸々の悪徳の諸々の古いボロ服を捨てて、イスラエル的自由に結合し結ばれるように急ぎましょう。

しかしあなたは、イスラエル人たちの自由がどれほど偉大か見たいですか。律法の中で、ヘブライ人たちの丁稚は、もしも奴隷状態の中に陥ったなら、六年を越えて仕えることは許されないと命じられています;しかし、七年目に彼は自由人として放免されねばならないと命令しています[1]。自由の配慮は、彼らの許でそれほど偉大です!とにかく、もしも私たちがそれらの事柄を霊的な理解に当てるなら、たとえあなたが、奴隷状態の中に落ち込んだヘブライ人的丁稚であるとしても――実際、魂の気安さによって奴隷状態の中に落ち込んだ人は丁稚です。そして、そのような奴隷状態を、()文書は言っています:「しかし、罪を犯した人は、罪の奴隷です[2]」と。その奴隷状態の中に落ち込んだのは、男性的で完全な魂でなく、子供的な気安い魂です――、ですから、たとえあなたがヘブライ人的丁稚であるとしても、すなわち、もしもあなたが、既に信仰を持ち、教会の中で洗礼を得たにもかかわらず、その後に罪の奴隷状態に陥ったとしても、あなたには六年間の奴隷状態で十分で、七年目にはあなたは、(奴隷として)星しないように注意し、あなたの自由に急いで戻らねばなりません。

七というの数字は、諸々の掟の律法を意味します[3]。他方、六という数字は、この世界の形象を保持しています。ですから、「この世界に属する諸々の事柄[4]」をあなたが賞味し、それらに没頭し、「肉に従って考える[5]」限り、あなたが罪に仕えているのは必然です。しかし、七という数字に、すなわち、律法の知識に、あなたが来るなら、その時あなたは、あなたの自由を求め、父的な高貴さに戻りなさい――もしもあなたが、あなたの諸々の悪の中に留まり、諸々の罪の中に固執し、不面目の印が耳の中に付けられたなら、あなたを諌め、最初の自由に呼び戻す神の諸々の言葉をあなたが聞かないかのように、あなたが罪の奴隷に永遠になるだろうことのないために。

さて、次に私は、あなたから尋ねたいです:あなたは、家父長かつ高貴な男児から、この世界の中で奴隷になることを進んで望みますか。あなたは疑いもなく拒否します。なぜなら、非常に多くの人たちが奴隷的な状態から自由へと急ぎ、彼らのできる限りで、さらに富裕になることを切望し、あらゆるところから求めれらた諸々の名誉によって生来の卑しさの無価値を覆い隠すのを、私たちは見るからです。

ですから、もしも、この生活の中で誰も奴隷であることを望まず、なることができる限りで、自由で富裕で高貴であることを――あれらの永遠的で限りなく不変の諸々の事柄の中で、自分にとって十分であるばかりでなく、他の人たちにも大目に見られるために――切望するならなら、私たちは、奴隷状態を無頓着に寛容するでしょうか。そして、私たちが「木の伐採者たちや水の運搬者たち[6]」の中で数えられるとすれば、それは私たちにとって些細なことに見えるでしょうか。

ですからそれゆえ、「日がある限り[7]」、私たちはよきことを行いましょう。そして私たちは、私たちの改善に努めましょう――諸々の行いと私たちの暮らしと品行とから、高貴であると見なされるに値し、「養子縁組の霊[8]」を受け取るに値する者になるために;神の唯一で真の息子・私たちの主なるイエス・キリストを通して、むしろ私たちが神の子らの間にいるために。彼に「栄光と力が世々にありますように。アーメン[9]」。



[1] Cf.Ex.21,2.

[2] Jn.8,34.

[3] Cf.Hom.Ex.9,3:「七という数字は律法を意味します」。Hom.Lv.13,5:「六という数字は、この世界と或る親近性を持っています。なぜなら、この可視的な世界は、六日の中で造られたからです」。同じくHom.Jg.4,2.

[4] Cf.Col.3,2.

[5] Rm.8,5.

[6] Cf.Jos.9,27.

[7] Jn.9,4.

[8] Rm.8,15.

[9] Cf.1P.4,11.