第十一講話

イエスがそれらによってギブオン人たちを助けるところの諸々の援助。そして、どのようにして彼は、太陽と月を立ち止まらせたか。

 イスラエルの子らにみずからを結び付けた人たちに対して、以前は友人たちであったすべての者たちが、イスラエルの子らの友愛の数々と信愛の後で、敵たちになります。イスラエルの子らから平和の条約を受け入れていたギブオン人たちを、エルサレムの王アドニ・ツェデクは他の四人の王たちを招いて、攻撃することに取り掛かります[1]。しかし、ギブオン人たちは、五人の王たちが自分に対して戦闘を共謀しているのを見て、みずからの諸々の武力と諸々の部隊に決して頼らず、イエスの許に(人を)遣わして、諸々の助けを求めます。それに対して彼は、神的な許しによって、援助をもたらすためにギブオン人の側につきます。ここで、なんと、諸々の驚きが天から明示されます。主は上から雹の諸々の岩を降らせ、イエスに対して挑戦した五人の王たちの軍隊を駆逐します。他方、そのときイエスは、神的な右手が自分とともに戦い、万事において幸運な諸々の成功によって前進するのを見て、或る新奇で驚くべき祈りを天に上げて、次のように言います:「太陽は、ギブオンの上に留まれ。そして月は、アヤロンの谷の上に(留まれ)――私がその民を打ち破るまで。そして、太陽はとどまり、そして月はその場所の中に(留まった)――主が彼らの諸々の敵を打ち負かすまで。そして、太陽は中天の中に留まり、一日の終わりまで、落日はなかった。それ以前に、そのような日はなかった。神がそのように人間(の声)を聞き入れたことはなかった。なぜなら主は、イスラエルのために戦ったからである。そして、あの五人の王たちは逃げて、マケダの中の洞窟の中にみずからを隠した[2]」と。

歴史に即して行われたそれらの事柄は、神的な力の驚嘆すべき諸々の事柄をあらゆる代に宣べ伝えますし、外からの解釈を必要としません。なぜならそれらの事柄の中で、諸々の行いの光は輝いているからです。しかし、それらの中で、霊的な理解は何を含んでいるかを、私たちは探求しましょう。



[1] Cf.Jos.10,3s.

[2] Jos.10,12-16.