しかしながら、次のことが知られるべきです:すなわち、諸々の王国それ自体――それらの王たちが今、イエスによって打ち負かされ、諸々の洞窟の中に逃げます――が、後に、聖人たちの籤の中に来たり、主の取り分と呼ばれます、エルサレム王国やラキス王国やヘブロン王国のように。そのことの中に次のことが示されていると、私は思います:すなわち、上に私たちが解明した五つの感覚でさえ、身体の中に置かれていますが、イエスによって打ち負かされ、それらから不誠実と不信仰が追い出されると、そして、それらが罪の奉仕をやめることの中で諸々の罪が死ぬと、その後に魂は、神の義を働くために、それら(の感覚)を奉仕者として使います。そして、そのようにして、以前は邪悪で最悪の王が君臨していたエルサレムの中で、その後はその中で、(神の)手において有能なダビデや平和をもたらすソロモンが君臨するでしょう。

実際、私たちが述べた人間たちのそれらの身体的な感覚には、邪悪な諸々の力が攻囲しています。それらの力は、それら(の感覚)をして諸々の悪しき情欲と諸々の不潔な奉仕職を魂に提供するように駆り立てています。それらの悪しき諸々の力を、もしもキリストの信仰が克服したなら、そして、彼の十字架の木の中でそれらが吊るされて、それらについて「彼がご自分の十字架の木の中で勝利を博し[1]」、それらが廃棄され、み国から押し出されたなら、そのとき魂は、神の持ち分に入ります。そのときエルサレムは神のみ国になり、神殿がその中で主のために建設されます。

あるいは、次のように言っていた人は、自分自身についてそのことを感じていなかったのですか:「私たちも、かつて、無分別で、迷っており、諸々の欲望と様々な情欲に仕える者たちでした[2]」と。実にそのことは次のことに他なりません:すなわち、エルサレムはかつてアドニ・ツェデク王の下にあり、他の町々は他の者たちの下にあったと書かれています[3]



[1] Col.2,14s.

[2] Tt.3,3.

[3] Cf.Jos.10,3s.