しかし、マルキオンとバレンティノスとバシリデス、そして、彼らとともに他の異端者たちは、それらの言葉を聖霊に相応しく理解することを望まず、「信仰から逸れ、自分たちを多くの不敬虔に挿入し[1]」、律法の神・世界の創造主・審判者として別の神を考案しています。(彼らによると)その神は、書かれた諸々のことがを通してある種の残酷さ――(イスラエルの人たちがイエスによって)敵たちの諸々の首を踏み付け、強引に侵入した土地の王たちを木の中で吊るすことが命じられているという残酷さ――を教えているかのようです[2]

とにかく、どうか私のイエスにして神の子なる主が私に次のことを許し、私に命じてくださいますように:私の諸々の足で姦淫の霊を踏みにじり、憤りと激怒の諸々の霊の諸々の首を踏み付け、貪欲の霊鬼を踏みつけ、自惚れを踏みつけ、諸々の足で高慢の霊を粉砕することを、そして、それらを私が行ったとき、為された業の全体を私に吊るのでなく、彼の十字架に吊るすことを――次のように言うパウロに私が従って:彼を通して「世界は私にとって十字架に磔にされました[3]」、そして――私たちが上で言及したように――「しかし(働いたのは)、私ではなく、私の中にいる神の霊です[4]」と彼が言う言葉に従って。

しかし、もしも私がそれをすることに値したなら、私は幸いになるでしょう。そしてさらに、イエスが古人たちに言うことが言われるでしょう:「あなた方は勇敢に振る舞いなさい、そして自信を持ちなさい。彼らの面前で恐れてはなりません、彼らの面前で慄いてはならない。なぜなら神なる主は、あなた方のすべての敵たちをあなた方の手の中に渡したからだ[5]」と。もしも私たちがそれらを霊的に理解し、そのような諸々の戦いを霊的に行い、不正に属するすべての霊的なものを諸々の天から追放するなら、最終的に私たちは、イエスから彼らの諸々の場所と諸々の王国――それらは、諸々の天の諸々の王国です――をイエスから、嗣業地の籤によって受け取ることができるでしょう――主にして私たちの救い主なるイエス・キリストが与えてくださるなら。「彼に栄光と力が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] 1Tm.6,10.

[2] Cf.Jos.10,24-26.

[3] 1Co.15,10.

[4] Cf.Jos.10,24-26.

[5] Jos.10,25.

[6] Cf.1P.4,11.