しかし、(それらの町の)諸々の名称の諸々の解釈そのものについても、もしも私たちが一層興味深、一層ねえ恵信尼吟味するなら、諸々の名称の諸々の意味が、ある時は悪い王国の理解に、なたある時は善い王国の理解に関係づけられるのが見いだされるでしょう。たとえば、リブナは純白と解釈されます[1]。しかし、純白は様々に解釈されます。実際、ハンセン病の純白もあれば、光の純白もあります。ですから、名称そのものの解釈によって、二つの立場の違いが支持されることができます。すなわちリブナは、悪い王たちの下でハンセン病の純白を持っていましたが、それが破壊され転覆されて、イスラエル的王国に帰属すると、リブナは光の純白を受け取るでしょう。なぜなら純白は、諸々の()文書の中で、賞賛すべきものおよび非難すべきものとして置かれているからです。

また、ラキシュは旅路と解釈されます。しかし旅路は、諸々の()文書の中で賞賛され得るものとしても、非難され得るものとしても捉えられています。そのことを証明するのは難しいことではありません。それは、詩編の中で言われている通りです:「そして、不敬虔な者たちの旅路は滅びである[2]」。そして他の箇所では逆に、「あなた方は、あなた方の諸々の足で正しい旅路を作りなさい[3]」と(言われています)。ですから、ここでも次のことが理解されることができます:すなわち、ラキシュの町は、最初、不敬虔な者たちの旅路でしたが;しかし後に、それが滅ぼされ覆されると、イスラエル人的支配者たちによって正しい旅路に導かれると。

同様にヘブロンについても、(人々は)それが結合や婚姻と解釈されると言っています。ところで、私たちの魂の結合は、最初、悪い男、最悪の夫、悪魔との結合でした。しかし、彼が破壊され殺されると、魂は、以前の最悪の男の「律法から解放され」、合法的な善き男と結合しました[4]。彼について使徒パウロは言っています:「しかし私は、あなた方を純潔な乙女として一人の男キリストに差し出すことに決めました[5]」。

ですから、諸々の名前そのものの理解も、一つひとつの町の二重の状態に共鳴しています。



[1] Cf.Hom.Nb.27,12.

[2] Ps.1,6.

[3] He.12,13.

[4] Rm.7,3.

[5] 2Co.11,2.