私としては次のことを考えています:諸々のイスラエル的戦争はそのように理解されるのがよく、イエスが戦い、諸々の都市を破壊し、諸々の王国を覆すことはそのように考えられるのがよいだろうと。実際、そのようにすれば、次の言葉も、より宗教的に、そしてより穏やかに現れるでしょう――すなわち、(彼が)すべての町をことごとく転覆し荒廃させ、「彼らの中に、息をする者や救われる者や逃げる者は誰もいなかった[1]」と。

どうか主が、ご自分を信じる魂たち、ご自分の国のために保護してくださる魂たち、そして私自身の魂から、以前のすべての悪を追放し、滅ぼし、私の中で邪悪の如何なる理解も息をせず、如何なる怒りの感情も、何らかの悪しき欲望の如何なる感情も私の中で救われず、私の口から悪しき言葉が「逃げて生き延びる」ことのないようにしてください。実際そのようにして私は、指導者イエスによって以前のすべての悪から清められ、イスラエルの子らの諸々の町の中にいることができるようになるでしょう。それらの町については、次のように書かれています:「ユダの町々は建設されるだろう。そしてそれらの中に彼らは住むだろう[2]」と。

実にいま、私たち一人ひとりの魂を、イエスは破壊し、建設します。そして、私たちがエレミアを論じたとき言ったのと同じように[3]、すなわち彼は、「それらによって転覆し、建設し、引き抜き、植えるところの諸々の言葉を自分の口の中に」受け入れていましたので[4]、今の場合も、私たちが諸々の手の中に持っている諸々の箇所の中でも、異端者たちに即して、あるいは、ユダヤ人たちに即して理解されるべきでないと、私は考えます。その個所でエレミアに次のことが言われたように、すなわち「見よ。私は今日あなたを、諸国民と諸王国の上に立てた――引き抜き、転覆し、滅びを与え、それらの後で建設し、植えるために[5]」と言われたように、イエスを通して行われたと書かれている諸々の事柄に関しても、いやむしろ、私たちの主イエスを通して今でも私たちの中で行われている諸々の事柄に関しても、同じように信じられねばなりません。すなわち、まず神のみ言葉の業は、先行する諸々の悪、悪徳の「諸々の茨と諸々のあざみ[6]」を引き抜くことです。実際、それらの根が、占領されている土地を掌握している限り、(その土地は)聖なる善き諸々の種を受け入れることはできません。



[1] Jos.8,22; 10,40.

[2] Am.9,14.

[3] Cf.Hom.Jr.1,16.

[4] Cf.Jr.1,9-10.

[5] Jr.1,9-10.

[6] Gn.3,9.