しかし私たちは、神が許してくれた限りで、敵対する軍隊の一人ひとりの王たちを検討し、諸々の名前の諸々の意味に応じてそれぞれが邪悪の中で行う業を観想することを試みましょう。

諸々の始めに、この戦いの扇動者とも名指され、他の者たちを集め、邪悪の共謀へ招いた人は、ヤビンと名付けられています。彼はハツォルの王でした[1]。実際、彼こそが、他の者たちを招集したと言われています。ところで、ヤビンは、理解や思慮と解釈されます。では、その理解や思慮は何でしょうか――預言者イザヤが「大いなる理解」と言っているものでなければ。実際、彼は言っています:「私はアッシリア人たちの君主を大いなる理解に導く。彼は言った:『私は、私の力によって行い、私の理解の知恵によって諸国民の諸々の境を取り除き、彼らの力を奪う』と[2]」。

ですから、「大いなる理解」と言われているその者、アッシリア人たちの王こそ、ヤビンであり、理解や思慮です。実に、蛇は楽園の中で、地上にあった「すべての獣たちの中でより思慮深かった[3]」と書かれています。そればかりか、「不正の管理人は、自分の行った諸々の事柄を思慮深く行った[4]」と言われています。したがって彼は、ハツォルの王ヤビンです。ところで、ハツォルは宮廷と解釈されます。ですから、全地を一つの宮廷としてその支配を保持している王にとって、一切の土地は彼の宮廷です。この王は悪魔です。しかしあなたは、彼の宮廷が土地であることを見たいですか。諸々の福音の中に次のことが書かれています:強い者は自分の宮廷の中で、より強い者が来るまで安全に眠る。しかしより強い者は、彼を縛り、彼が所有する諸々の物を取り去る[5]、と。ですから、宮廷の王は「この世界の支配者[6]」です。

彼は、ヨバブの許に(使いを)派遣します。実際、彼は、すべての諸国民に(使いを)遣わし、戦闘へと招く人です。彼は、マロンの王に(使いを)派遣します。実にヨバクは諸々の敵意と解釈され、他方、マロンは諸々の苦味を解釈されます。ですから悪魔は、疑いもなく逃亡天使たちに属する他の敵対的な力に(使いを)派遣します。その力は、諸々の苦味の王です。すなわち彼が起源となり、彼が働くことによって、この世界の中で諸々の苦味と諸々の辛苦を哀れな死すべき者たちに加えるすべてのものが生じます。ところでそれら(苦味や辛苦)は、罪の様々な種類です。実際、罪よりも苦いものは、あり得ません――たとえ諸々の最初の中に何らかの諸々の甘美さが見られるとしても。それは、『ソロモン』の中に書かれている通りです:「しかし、諸々の始めの中で甘美に見えたものが、諸々の最後の中で胆汁よりも苦く、剣の鋭さよりも鋭いことを、あなたは見出だすだろう[7]」と(ソロモンは)言っています。それに対し、正義の本性は反対です。諸々の始めの中で(他のものより)苦く見えるものは、しかし、諸々の最後の中で蜜よりも甘美なものであることが見いだされます。なぜならそれは、徳の諸々の実りをもたらしたからです。したがって悪魔は、(使いを)敵であり苦味の王であるヨバクの許に遣わします。

しかし彼は、王シメオンの許にも(使いを)派遣します。彼は、聴取と解釈されます[8]。しかし、聴取は二重であると思われます。実際、ある場合には神が人間を聴取るとき、そのことに従って、族長たちの一人がシメオンという名前を受け取りました。なぜなら神は、彼の母の祈りを聴取していたからです[9]。また他方で、聴取が言われます:すなわちその聴取によってある人が、悪魔の命令を聴取します。実際、悪魔は次のように言うのが常です:「もしもあなたがひれ伏して、私を崇拝したなら、私はあなたにそれらすべてを与えるだろう」と。しかし、もしもあなたがイエスに従っているなら、あなたは彼に言います:「私は神なる主に従うだろう。私は彼にしか仕えない[10]」と。しかし、彼の取り分に属する者たちは彼に聴従します――実に今、あのシメオンが行ったように。彼は、彼に聴従し、イエスに対する戦闘に向かいます。

しかし彼は、王ジフの許にも(使いを)派遣しました。ところで、ジフは、「流れている」と解釈されます――まるで驚きの言葉によって。なぜなら、実のところ、この世界に属するすべての諸々の肉的なものが流れている様子、そして、不信仰な人間たちの許で恒常的で永続的なものと見なされている諸々のものが流動的で脆い様子は、本当に驚くべきものです。諸々の善きものと考えられているこの世界の諸々の事物の理拠とこの生活の理拠を考察し、それらが常に変化し過ぎ去りゆく仕方を察知する人は、「流れている」と言います。

しかし悪魔は、イスラエルの子らに対して、大きいシオンの周囲にいる者たちを呼びます[11]。私は幾度も、シドンの諸々の場所に留まりましたが、地上的な場所に関する限り、私は一度も、大きいシオンと小さいシオンという二つのシオンがあることを見出しませんでした。しかし、もしも私が名前の解釈に戻るなら、それは女狩猟者や狩猟者たちを意味しますから、私は次のことを見ます:諸々の敵対的な力の中で――それらの中には諸々の違いがたくさんあります――或るものたちは諸々の小さなものの中で狩猟者たちであり、或るものたちは諸々の大きなものの中で狩猟者たちになっています。すなわち、或るものたちは諸々の小さな罪を通して魂たちを欺き、他のものたちは諸々の大きな罪を通して魂たちを欺きます。たとえば、代の諸々の欲望と肉の諸々の喜びの中で魂が欺かれると、(魂は)小さなものの中で捉えられたと言われねばなりません。他方、(魂が)摂理を否定したり、悪霊たちを神として拝むとき、それは大きなものの中で欺かれたと考えられるべきです。ですから、いま(悪魔は)、イスラエルの子らに対する大きな狩猟のために集合するように、大きなシオンに(使いを)派遣します。

諸々の山岳地帯にも(悪魔は使いを)派遣します。諸々の山岳地帯は、「神の知識に反対してみずからを高め、立ち上がる[12]」一切の理解と解釈されねばなりません。

(悪魔は)アラバの中にも(使いを)派遣します。ところで、アラバは罠と解釈されます。したがって(悪魔は)、罠的な諸々の力を招きます。それらは、諸々の人間的な魂を力によってではなく、公然たる諸々の攻撃によってでもなく、予期せぬ諸々の巧妙な罠によって欺きます。預言者が次のように言っている人たちも、そのような者たちでしょう:「彼は隠れたところで待ちかまえている――獅子が自分の巣の中で(待ち構えるように)。彼は、貧しい者を捕まえるために待ち構える[13]」とあります。しかし、もしも人がパウロのようであれば、彼は自信をもって「実際、私たちは、彼の諸々の姦策を知らないわけがない[14]」と言います。

(悪魔は)キネレトの中にも(使いを)遣わします。ところでキネレトは、「諸々の燈明のようなもの」と解釈されます;「諸々の燈明」でなく、「諸々の燈明のようなもの」と。実際、「燈明」と「燈明のようなもの」は、別物です。ヨハネは、「燃える燈明」でした[15]。なぜなら彼は、光の使いだったからです。他方、「燈明のようなもの」とは、「光の使いにみずからを変容する者[16]」です。そして、もしもあなたがさらに、「諸々の燈明」と、キネレトの中にある「諸々の燈明のようなもの」との諸々の違いをもっと明瞭に知ることを望むなら、ご自分の弟子たちに次のように言う救い主の言葉を聞いてください:「あなた方の諸々の腰は(帯で)締められ、あなた方の諸々の燈明は燃えているべきです[17]」とあります。ですから、諸々の燃える燈明とは、教会の中でカトリックの信仰を教え、神の民を真理の言葉で照らす人たちのものです。ところが、諸々の異端的な教説を聖なる文書の諸々の証言から、諸々の異端的な断言によって教える者たちは、諸々の()文書を読んでいるがゆえに、諸々の燈明に着火しているように見えます。しかし彼らは、諸々の偽りの断言を使っているので、諸々の燈明でなく、燈明のようなものです。

(悪魔は)諸々の平地にも(使いを)派遣します。実際(悪魔は)諸々の平地の中にいて低俗で地上的な諸々の事柄を賞味する者たちをも、自分の交わりの中に招く必要がありました。

(悪魔は)、シェフェラの中にも(使いを)遣わします。これは、改心と解釈されます。実際、改心によって、人は神の許に改心し、あるいは神によって、諸々の善へと改心させられました。しかし、別の改心もあります:すなわち、それによってヤビン王すなわち悪魔は、諸々の魂を自分の許へと改心させます。それは、シメオンについて上で私たちが解説したとおりです。ガラテアの人たちに起こった改心も、そのようなものだと考えられねばなりません。使徒はその改心について言っています:「あなた方は、善く走っていました。誰があなた方を妨げたのですか[18]」、すなわち、(誰が)善き行程と正しい旅路から改心させたのですか、と。

(悪魔は)、海沿いの諸々の場所の中にいた人たちの許へ、諸々の波の近隣人たち、すなわちカナン人の許へも(使いを)遣わします。彼らは、いわば「動揺させられた者たち」と解釈されます。すなわち彼らは、常に諸々の動きと諸々の波の中であらゆる事柄を動揺させます。また、(悪魔は使いを)海沿いのアモリ人たちの許にも遣わします。アモリ人たちは、「苦くする者たち」と解釈されます。彼らは、私たちが上で論じた人たちに似ています。

ですから、以上が、不可視的な敵たちの全軍の目録です。彼らは、指導者にして私たちの救い主なるイエスに従う私たちを攻撃するために王ヤビンによって集められています。しかし主は、何と言っているでしょうか。「あなたは、彼らの面前で畏れてはならない。なぜなら明日の今頃、私は彼らをあなたの諸々の手の中に渡すからだ[19]」と、言っています。私は、次のことを見ます:私たちは今日、彼らすべてを圧倒することも、すべてを滅ぼすこともできません。しかし彼らは、明日、すなわちこの代の完成の後に、滅ぼされるだろうと。

実際、その時、敵対的な一切の力が破壊されるでしょう。そして、その時、(一切の力は)完全に打ち負かされるでしょう。そのときあなたは、諸々の左側にいる人たちに次のことが言われるのを見るでしょう:「あなた方は、神が悪魔とその使いたちのために準備した永遠の日の中に生きなさい[20]」と。実際そのとき私たちも、もしも私たちが打ち勝ち、指導者イエスに従って獲得することができたなら、父がご自分の聖なる人たちと、ご自分の諸々の掟と、「諸々の正義を実行した[21]」人たちのために準備したみ国を受け取るでしょう――イエス・キリストなる私たちの主ご自身をとおして。「彼に栄光と力が代々にありますように。アーメン[22]」。



[1] Jos.11,1.

[2] Is.10.12-13.

[3] Gn.3,1.

[4] Lc.16,8.

[5] Mt.12,29.

[6] Jn.16,11.

[7] Pr.5,4.

[8] Philon, Mut.,99.

[9] Cf.Gn.29,33.

[10] Cf.Mt.4,9-10.

[11] Cf.Jos.11,8.

[12] 2Co.10,5.

[13] Ps.9,30.

[14] 2Co.2,11.

[15] Jn.5,35.

[16] 2Co.11,14.

[17] Lc.12,35.

[18] Ga.5,7.

[19] Jos.11,6.

[20] Mt.25,41.

[21] Mt.3,15.

[22] 1P.4,11.