第十五講話

ヤビンの後に続いて起こる諸々の事柄について

 もしもそれらの肉的な諸々の戦いが、諸々の霊的な戦いの形象を担っていないなら、ユダヤ的な諸々の歴史の諸々の書物は、平和を教えるために来たイエスの弟子たちに、教会の中で読まれるために、使徒たちによって伝えられることは決してなかったと、私は思います。実際、イエスから次のように言われている者たちにとって、諸々の戦いのその記述は何に役立つでしょうか:すなわち、「私はあなた方に平和を与える。私はあなた方に私の平和を残す[1]」。そして彼らには、使徒を通して、次のことが命じられ、言われています:「あなた方は、あなた方自身で復讐せず」、「むしろ不義を受け入れ、欺きにいっそう苦しみなさい[2]」と。まさに使徒は、如何なる肉的な戦いももはや私たちによって行われるべきでなく、諸々の霊的な敵対者たちに対する魂の諸々の戦闘に汗が流されるべきことをよく知っていて、軍役に司令官のとごくになって、キリストの兵士たちに命令を与えて言っています:「あなた方は神の諸々の武器を身に着けて、悪魔の諸々の姦策に対して立つことができるようにしなさい[3]」と。そして、私たちが古い諸々の行いから、それらの諸々の霊的な戦いの諸々の模範を持つことができるように、行われた諸々の事柄のそれらの諸々の物語が、私たちのために教会の中で朗読されることを、彼は望みました。それは私たちが、もしも霊的な者たちであるなら、「律法は霊的なもの[4]」であると聞いて、私たちが聞く諸々の事柄の中で、「諸々の霊的な事柄を諸々の霊的な事柄と比較する[5]」ようになるためであり、また、肉的なイスラエルを可視的に攻撃したそれらの諸国民から出発して、敵対的な諸々の力の諸国民がどれほどいるかを観想するようになるためです。それらの敵対する諸々の力は、「諸々の天の中で邪悪の霊たち[6]」と言われる霊的な者たちに属しており、真のイスラエルである主の教会に対して諸々の戦いを引き起こしています。

モアブ人たち、そしてアモン人たち、そして私たちが上に想起した不可視的なすべての王たちと諸国民が、私たちを攻撃するために来ます。それは、私たちに罪を犯させるためです。なぜなら、身体が鉄の傷を受けることによって死ぬのと同じように、魂も罪の傷を受けることによって死ぬからです。そして、「諸々の同じ事柄を何度も言うことは、私たちにとって気の進まぬことになるべきでなく、あなた方にとって必要なことである[7]」と、私は思っています。とにかく、あなた方は、(同じことが)何度も語られ、繰り返しあなた方の諸々の心に繰り返し教え込まれるようにして欲しいものです。それはあなた方が、それらの事柄を読んで、それら事柄の中でユダヤ的な理解や異端者的な理解を保持しないようにするためです。

しかし、それらの事柄について、私たちが概略的に言及した後で、朗読された諸々の事柄に関して個別にわずかばかりのことを検討するのは無駄ではないでしょう。さて私たちは、上の諸々の箇所の中で省略された諸々の事柄を取り上げて検討しましょう。



[1] Jn.14,27.

[2] 1Co.6,7.

[3] Ep.6,11.

[4] Rm.7,14.

[5] 1Co.2,13.

[6] Ep.6,12.

[7] Ph.3,1.