「そしてイエスは、彼らのすべての王たちを剣の死の中で殺した[1]」と、(聖文書は)言っています。

私たちすべての中に、「罪が支配していました[2]」。そして、私たちすべての中に諸々の悪徳が支配していました。そして私たちすべての中に罪の一般的な王国がありました。それは使徒が言っている通りです:「実際すべての人たちが罪を犯しました。そして彼らは、神の栄光を欠いています[3]」。しかしながら、一人ひとりが、彼の中で君臨し、彼を支配していた何らかの特定の王を自分の中に持っています。たとえば 他の人の中では吝嗇が王国を保持していましたし、他の人の中では高慢が(それを保持していましたし)、他の人の中では欺瞞が君臨していましたし、他の人では欲望が支配していましたし、他の人は激怒どいう王に苦しんでいました。しかし、それらの事柄がその通りであり、私たち一人ひとりの中に罪が支配していると使徒パロが言っているのを、あなたは信じてください。実際、彼は言っています:「ですから罪が、(あなた方を)自分に従わせるために、あなた方の死すべき体の中で君臨することのないようにしてください[4]」と。

ですから、私たちが信じる前は、私たちの一人ひとりの中に罪の王国がありました。しかし、イエスが来た後、彼は、私たちの中で罪の王国を保持していたすべての王たちを殺しました。そして彼は、それらすべての王たちを殺害すること、彼らの内の誰一人として残さないようにすることを私たちに命じました。実際、もしも人が、彼らの内の誰かを自分自身の中に生きたまま保存していたなら、彼はイエスの軍隊の中にいることはできなかったでしょう。ですからもしも、いまだにあなたの中で貪欲が支配するなら、もしも高慢が(支配するなら)、もしも虚栄が(支配するなら)、もしも欲望が(支配するなら)、あなたはイスラエル的な兵士ではないでしょうし、主がイエスに与えた命令を果たしません。

「主の僕モーセが彼に定めたとおりに[5]」と(聖文書は)言っています。ここで、主の僕モーセは、律法の言葉そのものと呼ばれます――それは、福音の中でも、(聖文書が)言っている通りです:「彼らはモーセと預言者を持っている。彼らはそれらの人に聞くがよい[6]」と。ですから、律法は私たちに、私たちを罪へと招く罪のすべての王たちを殺害することを命じています。「イエスが行った通りに。そして、モーセが彼に定めたすべての諸々の事柄を、彼が何一つとして逸脱しなかった通りに[7]」とあります。私たちは、説明の優先的な秩序に従って[8]、次のことを言いました:すなわち、いまモーセがそれであると呼ばれている神の律法が定めた事柄はどんなことでも、イエスは私たちの中で果たします。そして、実に彼自身が、私たちの中で諸々の悪徳を殺害し、罪の諸々の最悪の王国を滅ぼします。しかし、私たちの救い主でもある主ご自身についても次のことが言われます:すなわち、モーセが律法の中で命じたすべての諸々の事柄をイエスは行い、何も尾をもやり過ごさなかったと。実際、使徒は次のことを言っています:「諸々の時の充満が来たとき、神はご自分の子を、女から成った者として、律法の下で成った者としてお遣わしになった[9]」と。ですから、もしも彼が律法の下で成ったなら――なぜなら彼は律法の下にいました――、彼は、私たちを律法の呪いから購うために、律法が命令していたすべての事柄を成就しました。彼自身も、自分自身について、「私は律法を解くために来たのでなく、成し遂げるために来た[10]」と言っています。



[1] Jos.11,12.

[2] Cf.Rm.6,12.

[3] Rm.3,23.

[4] Rm.6,12.

[5] Jos.11,15.

[6] Lc.16,29.

[7] Cf.Jos.11,15.

[8] 「説明の優先的な秩序に従って」(secundum priorem expositionis ordinem)。同様のことが、『民数記講話』で明示的に述べられている。

[9] Ga.4,4.

[10] Mt.5,17.