しかしまた、次のことも私たちに今日、朗読されています:すなわち、モーセは、ある人たちに嗣業地を与えたこと[1]:しかしそれらの後で、イエスも、主の命令に従って、嗣業地を分配しました[2]。ですからモーセが第一者として嗣業地を分配し、イエスが第二者として嗣業地を分配しました。いま、あなたは、モーセを律法と理解してください。ですから、律法に従って生きた人たちは、第一者たちとして、嗣業地を受け取りましたが、しかし、(それは)約束の土地の外でです。その時、彼らは嗣業の土地を受け取りましたが、彼らはそれを所有してもいず、互いの間で分割もしていません。彼らは、それがイエスを通して籤によって彼らに分配されるまで(受け取ることを)期待しています。

使徒が、以前の父祖たちについて書きつつ、ヘブライ人たちに宛てて言っていることは、明らかにそのことではないでしょうか。すなわち(使徒は)、「彼らは信仰によって神に喜ばれた[3]」と言いました。そして彼は、付け加えて言っていいました:「しかし彼らすべては、信仰によって証言を持っていますが、まだ、諸々の約束を得ていませんでした。なぜなら神は、私たちのために何かしらもっと善いものを予見していたからです。それは、彼らが私たちになしで完成者たちにならないようにするためです[4]」と。ですから彼らは、既に自分の約束を持っており、安らっています[5]。そして彼らは、モーセを通して、嗣業地を取るに相応しい者と見なされました。しかしながら他ならぬ彼らは、未だに戦っており、戦闘の中にいます――イエスの下で軍役に就いている者たちのために。しかし、あなたは、戦っているそれらの人たちが誰であるかをお尋ねです。そして、彼らが行うそれらの諸々の戦いが何であるかをお尋ねです。私としては次のように考えます:すなわち、私たちに先立って眠りについたすべての教父たちが、私たちのと共に戦い、自分たちの諸々の祈りによって私たちを助けていると。実際、私は、年長の教師たちの中のある人が、『民数記』の中に次のことが書かれている箇所について言っているのを聞いたことがあります[6]:すなわち (民数記には)、あの会堂がこの会堂をなめつくすだろうなめ尽すだろう――「ちょうど牛が野から緑の葉をなめつくすだろう[7]」と(書いてあります)。彼は言っていました:「次のことでなければ、どうしてそのような類似が採用されたのか。すなわち、その箇所の中で、聖人たちの中で私たちに先行した主の会堂が、口と下によって、敵対的な街道を食べ尽すだろう、すなわち、諸々の祈りと諸々の祈願によって私たちの諸々の敵を食い尽くすだろうと理解されねばならないと

ですから、諸々の武器の中で私たちは、私たちの不可視的な敵対に対して戦いを挑むべきでなく、むしろ、諸々の祈りと神の言葉の諸々の省察と善き諸々の業と諸々の考えとによって戦いを挑むべきです。実際、信仰と諸々の業によって勝利した教父たちも[8]、そのように武装していました。とにかくあなたは、彼らについて次のように書かれていることを見てください:「彼らは、神と彼のしもべモーセを信じた。そしてその時、モーセは次の讃歌を歌い、言った:『私たちは主のために歌おう。なぜなら彼は、栄光の内に称えられたから』[9]」と(聖文書は)言っています。

ですから私たちも、十全な信仰と、諸々の完全な業と、絶えざる諸々の祈りと、神的なみ言葉の省察と、霊的理解とを耕し、そして、それらすべてをいわば、神の諸々の武器として武装し、「悪魔の諸々の策略に対して立ち向かい[10]」、私たちの主キリスト・イエスの中で私たちの助け主なる神を呼び招きましょう。「彼に栄光と力が代々にありますように。アーメン[11]」。



[1] Jos.13,8s.

[2] Jos.14,1s.

[3] He.11,2.

[4] He.11,39-40.

[5] Cf.Jos.1,13.

[6] La comparaison avec le texte d'Hom.Nb.13,5, où le maitre en question commente le meme passage, permet d'y voir un Juif converti. Sur les didascales hebreux ou les docteurs juifs qu'a frequentés Origè ne, voir G.Bardy, <<Les traditions juives das l'oeuvre d'Origène>>, RB, 34 (1925), p.221-226.

[7] Nb.22,4.

[8] Cf.Jc.2,14-25.

[9] Ex.14,31-15,1.

[10] Ep.6,11.

[11] 1P.4,11.