第十七講話

レビ人たちは、嗣業地として土地を受け取らなかったことについて

 

 律法を受け入れた人たちが、「諸々の天的な事柄の影と雛形[1]」に仕えているように――なぜなら律法は、かの真の律法の影だからです――、ユダヤの中で土地の嗣業地を分割する人たちは、天的な分割の「雛形と影」に従っています。ですから、諸々の天の中に真理があり、他方、諸々の土地の中に真理の「影と雛形」がありました。そして、この影が諸々の土地の中に実在していた限りで、土地的なエルサレムがありました。神殿がありました。祭壇がありました。可視的な再議もありました。大祭司たちや祭司たちがいました。さらにユダヤの諸々の町も諸々の村も、そして、いまこの書の中に書き記され朗読されているすべての諸々の事柄がありました。

しかし、私たちの神なる救い主の到来の中で、天から真理が降りて「土地から昇り、天から正義が眺望した[2]」とき、影と雛形は落ちました。実際、エルサレムは落ちました。神殿は落ちました。祭壇は取り除かれました。その結果、すでにゲリジム山の中にも、エルサレムの中にも、(神を)崇拝すべき場所はもうありません。むしろ、「父を崇拝し、霊と真理の中で崇拝する真の崇拝者たちがいます[3]」。ですから、そのように真理が現臨しますから、「雛形と影」はやみました。そして、神の霊と「いと高き方の力[4]」を通して、乙女の胎内で形作られた神殿はが現臨しているので、諸々の石から形作れられた神殿は破壊されました。「将来の諸々の善きもの[5]」の大祭司が現臨していました。「牡牛たちと牡山羊たち[6]」の大祭司たちはいません。「世の罪を取り除く神の子羊」が来ました。家畜たちの中から取られ、多くの世代によってむなしく屠殺された子羊はなくなりました。ですから、影の中で以前の人たちに与えられていたそれらすべてのものが、現臨し居合わせる真理によって止んだとすれば、実に諸々の天の嗣業地が開かれることによって地上的な嗣業地が止むのは、疑いもなく必然的なことでした。ところで、それらすべてがなくった理拠は次のことです:「一切の口がふさがれ、一切の世が神に服従させられる[7]」ようになることです。それは、不信仰な民の中から、自分たちの不信仰の諸々の口実を受け取らないようにするためです。そうでなければ、彼らは、神殿や祭壇や大祭司たちや祭司たちの諸々の影――それらの影は太古から自分たちに伝えられたものでした――を持っていれば、太古の祭儀の状態が存続していれば、信仰に過ぎこしても、自分たちは宗教の次元と共謀しているように見えるでしょう[8]。ですからそれゆえ、かつて諸々の土地の中に投影されていたそれらすべてのものが取り除かれることを、神的な予見は摂理しました。それは、諸々の予型が止むことによって、探求されるべき真理の道を彼らが何らかの仕方で受け取るようになるためです。

ですから、おおユダヤ人よ、もしもあなたが、土地的な町であるエルサレムの許に来て、それが滅ぼされ、灰燼にされたのを見ても、あなたは泣かないでください――あなた方が、いま「子どもの諸々の理解で[9]」行っているように。あなたは、嘆かないでください。むしろ、諸々の土地的な事柄に代わって、天的な事柄を探求してください。あなたは、上方を返り見てください。そうすればあなたは、「すべてのものの母である天的なエルサレム[10]」をそこに見出すでしょう。

もしもあなたが、破壊された神殿を見ても、私はあなたが悲しむことを望みません。もしもあなたが大祭司を見出ださなくても、私はあなたが絶望することを望みません。諸々の天の中には祭壇があり、そこには、「メルキゼデクに秩序に即して神によって選出された、諸々の将来的な善きものの大祭司[11]」が居合わせています。ですから、あなた方が諸々の天の中かで嗣業地を探し求めるようになるために、あなた方から神の優しさと哀れにみよって、土地的な嗣業地が破壊されました。



[1] He.8,5.

[2] Ps.84,11.

[3] Jn.4,23.

[4] Lc.1,35.

[5] He.10,1.

[6] He.10,4; 9,13.

[7] Rm.3,19.

[8] 「宗教の次元と共謀している」:「真の宗教から遠ざかっているということ」。

[9] Cf.1Co.14,20.

[10] Ga.4,26.

[11] Cf.He.5,10.