そして私たちは、最初にイエスから嗣業地を受け取った人が誰であるか見ましょう。「エフネの息子カレブ」であると(聖文書は)言っています[1]。実際、彼が最初に懇願し、(聖文書に)叙述されている確かな諸々の理拠と諸々の言葉によって懇願しました。そしてそれらの言葉は、さらに私たちをも救いのために強化することができます。

何よりも先ず、カレブは「心のようなもの」と解釈されます。ですから、万事において知性に努力を払う人でなければ、誰が「心のようなもの」でしょうか。彼は、教会の身体の或る肢体とは言われず、私たちの中でより傑出した心であると言われます。すなわち彼は、万事を理性と慎重さをもって行い、ありとあらゆることをそのように按配します――心以外の何ものでもない者として[2]

他方、彼の父エフネも、回心と解釈されます。ですから、このカレブは改心の息子です。いったい、彼が神に回心して、心という息子を生むほどの実りをみずからもたらさないとすれば、(カレブは)何なのでしょう。ですから、諸々の神的な考えに時間を割き、慎重かつ理性的に万事を行う人は、カレブです。

この人(カレブ)は、第一にモーセによって教育されましたが、しかし第二に彼に寄り添っていたイエスによって教えられましたが、次のことを言います:「神が神の人モーセに語った言葉を、あなたは知っている[3]」と。あなたは、主が語った言葉を知っています。主がモーセに語った言葉を知ることができるのは、イエスただ一人でなければ、他の誰がいるでしょうか。誰も、イエスが教えたように、律法を理解しませんでした。なぜなら彼は、すべてのことを教え開示し、彼自身がパウロに「律法が霊的である[4]」ことを啓示したからです。

(主が)私について、そしてあなたについて語ったように[5](とカレブは)言っています。「私について、そしてあなたについて」と、モーセは語ったと(聖文書は)言っています。「あなたについて」という言葉は、主が言ったものです。なぜなら、「もしもあなた方がモーセを信じたのなら、私をも信じただろう。実際、彼は私について書いた[6]」とあるからです。他方、(モーセが言った)「私について」という言葉は、「心(のようなもの」としてのカレブについてのものですが、モーセが心について書いたのは確実です。なぜなら彼は、すべての事柄を慎重かつ賢明に書き記したからです。ですから(カレブは)次のことを言います:「今日、私は強力です――あの時、私が強力であったように[7]」と。もちろん聖なる人も同じように、強力です――現在の諸々の事柄の中でも、過去の諸々の中でも、そして、新しい諸々の事柄の中でも、古い諸々の事柄の中でも、諸々の福音の中でも、律法の中でも。ですから彼が言っていること、すなわち、あの時モーセの下でと同じように、今日イエスの下で強力ですと言っていることは、このことです。なぜなら夜警の心は両者の契約の諸々の神秘の中で強力だからです。



[1] Cf.Jos.14,6-14.

[2] ストア派の「先導的能力」を暗示している。カレブが「心のようなもの」とする解釈は、フィロンからの影響もあるだろう。Cf.Wurtz,p.205; 542.

[3] Jos.14,6.

[4] Rm.7,14.

[5] Jos.14,6.

[6] Jn.5,46.

[7] Jos.14,11.