しかし私たちは、エフネの息子カレブがイエスから求める最初の願いをも見ましょう:「私はあなたにこの山を求めます――主があの日の中で言ったように[1]」と言っています。

聖なる人は、卑しいものや見捨てられたものを何も求めませんし、諸々の沈められた谷の中に横たわるものを何も求めません。むしろ彼は、至高の山と、城壁で囲まれた諸々の大きな町がその中にあるところの山を尋ね求めます。実際、次のことが書かれています:「そこには、アナキ人たちがいて、城壁に囲まれた諸々の大きな町があります[2]」と。彼はそれらを求めましした。なぜなら彼は、戦い方を知っていたからです。それは次のように書かれている通りです:「知恵ある人は、城壁に囲まれた諸々の町を占領した。そして、不敬虔な者たちが信頼していた城壁を破壊した[3]」と。ソロモンがそれらのことを言うとき、彼は次のことを私たちに教えることを望んでいたと、あなたは考えますか:すなわち、知恵者は諸々の町を取り、諸々の石から建設された諸々の城壁を破壊することを。むしろそれは、次のことを指示しているのではないでしょうか:すなわち、町と諸々の城壁は、不敬虔者たちの諸々の教えと哲学者たちの諸々の演繹――彼らはそれらによってあらゆる諸々の不敬虔と神的な律法に反する諸々の事柄を建て増しします――であると。そればかりか、異端者たちが諸々の()文書の中に、あたかも諸々の高い山の中に配置した諸々の事柄も、城壁に囲まれ、諸々の山の中に配置されたもろもろの町であると見なされるべきです。ですから、それらのもろもろの町を、知恵者である者は誰でも、真理の言葉を宣べ伝えることによって破壊しました。そして、偽りの諸々の都市を真理の雄羊によって覆します。それは、使徒パウロが言っていた通りです:「(私たちは)諸々の考えを破壊し、神の知識に反対してみずからを高める一切の高みを破壊します[4]」とあります。

ですから今でも、極めて賢明なこのカレブは、イエスの前にたたずみ、戦いに対して自分が強力であること、そして戦闘に対して準備ができていることを約束し、それゆえ討論する能力が自分に約束されることを懇願します。それは代の問答者たち、諸々の真実な事柄に代えて諸々の虚偽を主張する者たちと対戦するため、彼らを論駁し凌駕するため、そして彼らが諸々の偽りの主張によって構築したすべての諸々の事柄を覆すためです。それで、彼の覇気を見て、「イエスは彼を祝福する[5]」、すなわち、彼がそのような諸々の事柄を懇願し、敢行することを彼は祝福すると、(聖文書は)言っています。しかしあなたも、もしも諸々の研究に努力を払い、神の律法を慎重に省察し、神の律法の中で心になることを望むなら、あなたは、城壁で囲まれたそれらの諸々の大きな都市を、すなわち、虚偽の諸々の主張を覆すことができ、そうすることによってあなたも、イエスによって祝福され、彼からヘブロン受け取ることに値する者とされるでしょう[6]

他方ヘブロンは、結合や結婚と解釈されます[7]。ぞのことによって、おそらく次のことが明示され得るでしょう:すなわち太祖アブラハムによって準備された二重の洞窟がその(町の)中にあること。その洞窟の中は、父祖たちの配偶者たちと彼らの諸々の遺物が安置されています:すなわち、アブラハムがサラと共に、イサクがレベカと共に、ヤコブがレアと共に。ですからカレブは、父祖たちの諸々の遺物を嗣業地の中で受け取ることに相応しい者になりました。なぜなら彼は疑いもなく、彼の中にあった知恵――それによって彼はモーセの下でもイエスの下でも力がありました――によってその結合の理拠を理解することができましたし、次のことがどんな理由によるものかを見通しました:すなわち、アブラハムと共にサラだけがそこに横たわっており、ハガルもヘトラも彼に付け加えられるのことに相応しい者とされなかったこと;あるいは次のことがどんな理由によるものかを(見通しました):すなわちヤコブと共にレアだけが横になっているのが見られ、(彼女よりも)もっと大切にされたラケルも、妾たちの誰も洞窟の中で彼と組み合わされなかったこと。ですから、その慎重で賢明なカレブは、父祖たちの諸々の記憶の中で嗣業地を受け取ります。イエスはその彼に、アナク人たちの部族の母なる都ヘブロンを彼に分配しました。そしてそれは、彼にとって「今日に至るまで分け前[8]」になっています。

ともかく私にも、アブラハムとイサクとヤコブの分け前が与えられますように。そして私の神が、私たちの主なるイエス・キリストの中で私のものとなりますように――「彼が、アブラハムの神とイサクの神とヤコブの神となった[9]」ように。キリスト・イエスに「栄光と力が代々にありますように。アーメン[10]」。



[1] Jos.14,12.

[2] Jos.14,12.

[3] Pr.21,22.

[4] 2Co.10,5:「高み」は、「聖人の高み」と「神に対する高慢」という二重の意味に理解される。Cf.Hom.Jr.12,12(拙訳).

[5] Jos.14,13.

[6] Cf.Jos.14,13.

[7] Cf.Hom.Jos.13,2 et Philon, Post.,60-62.

[8] Cf.Jos.14,14.

[9] Ac.7,32; Ex.3,6.

[10] 1P.4,11.