第二講話

「私の僕モーセは亡くなった[1]」と書かれていることについて。

 そして私たちは、モーセの死去についても語らなければなりません。実際、どのようにしてモーセが死ぬかを私たちが理解しなかったなら、イエスがどのようにして君臨するかに私たちは注目できないでしょう。

ですから、もしもあなたが転覆されたエルサレム、荒廃させられた祭壇を考えてみるなら、諸々の生け贄も、諸々の犠牲も、諸々の新穀も、祭司たちも、大祭司たちも、レビ人たちの諸々の奉仕も――それらがまったく止んでいるのをあなたが見るとき、あなたは次のように言うべきでしょう:「神の僕モーセが亡くなった[2]」と。

もしもあなたが、「一年の中で三度、主のみ前に来る[3]」人が誰もいないのを見たなら、また、神殿の中で諸々の奉納品を献げたり、パスカを屠殺したり、無酵母パンを食べたり、諸々の新穀を献げたり、諸々の初子を奉献したりする人が[4]誰もいないのをあなたが見たなら、あなたはそれらすべての事柄が挙行されないのを見るとき、あなたは次のように言うべきでしょう:「神の僕モーセは亡くなった[5]」と。

しかし、諸国民が信仰の中へ入り、諸々の教会が建てられ、諸々の祭壇が、家畜の血糊を掛けられるのでなく、「キリストの貴重な血[6]」によって奉献されるのを見たなら、あなたは祭司たちとレビ人たちが、「雄牛たちと雄山羊たち血[7]」を提供するのでなく、聖霊の恵みを通して神のみ言葉を提供するのを見たとき、次のように言うべきでしょう:イエスが――あの、ヌンの子イエスではなく、神の子イエスが――モーセの後に指揮権を引き受け獲得した、と。あなたが、「私たちのパスカ・キリストは屠られた[8]」のを見たとき、そして、私たちが「誠実さと真理との諸々の無酵母パン[9]」を食べるのを見たとき、善い土地の諸々の実が教会の中で「三十倍と六十倍と百倍[10]」――寡婦たち、乙女たちと殉教者たち[11]――になっているのを見たとき、イスラエルの種――「諸々の血からでもなく、男の意思からでもなく、肉の欲からでもなく、神から生まれた人たち[12]」から出たイスラエルの種――が増やされるのを見たとき、そして、「散らされていた神の子らが一つに集められる[13]」のを見たとき、神の民が安息日を守る――共通の暮らを休むのでなく、罪の働きを休む――のを見たとき、あなたはそれらすべての事柄を見るとき、次のように言うべきでしょう:「神の僕モーセは亡くなった[14]」、そして、神の子イエスが指導権を獲得する、と。

最後に或る小本の中でも[15]――それは正典の中に含まれていないが、その中には、次の神秘の形象が叙述されています[16]――、次のことが述べられています:すなわち、二人のモーセが見られていた:一人は霊の中に生きており、他の一人は身体の中で死んでいた。確かにその中には次のことが含まれています:もしもあなたが律法の文字――生気がなく、私たちが上に言及したすべての事柄を欠如した文字――を直視するなら、彼は、身体の中で死んでいるモーセです。しかし、もしもあなたが律法の覆いを取り除き[17]、「律法が霊的なものである」ことを理解できるなら、それが霊の中に生きているモーセです[18]



[1] Jos.1,2.

[2] Jos.1,2.

[3] Ex.23,17.

[4] Cf.Ex.22,28;

[5] Jos.1,2.

[6] 1P.1,19.

[7] He.9,13.

[8] 1Co.5,7.

[9] 1Co.5,8.

[10] Mt.13,8,23.

[11] Hom.Gn.XII,5:「殉教者たちは、百倍(の実)を収穫します」。Cyprianus, De habitu virginum,21:「殉教者たちは百倍を、そしてあなた方(乙女たち)は、六十倍をもたらします」。

[12] Jn.1,13.

[13] Jn.11,52.

[14] Jos.1,2.

[15] モーセの昇天を指すと考えられるが、対応する箇所がそこには見あたらない(現存しない)

[16] この挿入句は、他の場合と同様に、ルフィヌスの補足だろう。しかし、「正典」(canon)の解釈の如何によっては、口述しているオリゲネス自身による補足とも考えられる。

[17] Cf.2Co.3,16.

[18] 省略