しかし、(聖文書は)言います:「私がモーセに言ったように、荒れ野と、このアンチレバノンから大河ユーフラテス川まで(を私はあなたに与える) [1]」と。神はイエスに荒れ野――すなわち諸々の荒れ地――を従わせました[2]。諸々の荒れ地とは何でしょうか。それらについて預言者は言っています:「乾いた荒れ野よ、あなたは喜びなさい[3]」、そして、「荒れ野としての女の子らは、男を持つ女の子らよりも多くなる[4]」と。

また(聖文書は)、イエスが神から受け取ったのはレバノンではなく、「アンチレバノン」であると言いました。ところで、アンチレバノンは、レバノンの「代わり[5]」に言われているかのようです。

ですから、もしもあなたが、あの前出の民・肉によるイスラエル――それは「真のオリーブの木[6]」でした――を見るなら、あなたはそれを真のレバノンであったと理解してください。しかし、その不信仰の故に、「国は彼から取り去られ、その実を作る民族に与えられる[7]」のをあなたが見たなら、追い差だれたあの民の「代わり」に国の中に導き入れられる民はアンチレバノンであると、あなたは理解してください。それは、私たちの主なるイエス・キリストによって「諸国民から集められた[8]、生きている神の教会[9]」です。彼に、「栄光と支配が代々にありますように。アーメン[10]」。



[1] Jos.1,3-4.

[2] 「荒れ野」(eremus)、「諸々の荒れ地」(deserta)。前者はギリシア語の音訳。後者はラテン語。

[3] Is.35,1.

[4] Is.54,1; Ga.4,27.

[5] 原文はラテン語であるが、ギリシア語の「アンチ」(anti)は、「代わり」(pro)を意味する。

[6] Rm.11,24.

[7] Mt.21,43.

[8] Rm.9,24.

[9] 1Tm.3,15.

[10] 1.P.4,11.