第二十講話

理解の難しさについて、そして、カレブについて、どのようにして彼がエブロンを獲得したのか、あるいは、彼の娘らについて。

 

 もしもある人たちに、「聖なる善き土地、生ける者たちの土地」――その中に死はありません――に昇ることができるなら、もしも人が霊を通してそれらの事柄を見るために登攀すること相応しいとされたなら、その人はより真実に、諸々の嗣業地と諸々の場所と、(聖文書の)これらの諸々の箇所の中に書き記されている諸々の呼称との諸々の違いを知ることができます。しかしながら、そのように教えられた、あるいは、そのように霊の恵みに満たされた魂を見出すことは困難ですから、神的なみ言葉と朗読がいかなる解明も受け取らなければ、嫌気の内に聴衆たちに生じてしまうというようなことがないようにするために、私たちの諸々の魂を建徳することができる諸々の事柄をこのような諸々の朗読から――あなた方が祈ってくださり、神が許してくださることによって――差し当たり引き出すことができるように、私たちは皆さんの激励のために努力しましょう。もしも、私たちが差し当たり理解することができなかったり、あるいは、あなた方がまだ聴解できない諸々の事柄があるとしても、私たちが吟味している諸々の事柄から、私たちがより矯正され、より改善されることによって、今は私たちが理解できない諸々の事柄さえ、私たちがより善い者になった暁には、把握できるだろうと、私たちは希望すべきです。もちろん最善なことは、私たちがこの生活の中にいる間に、労苦の正当な報いになる場合には、それらの事柄を獲得することでしょう、それが叶わなければ、死後に、相応しいと見なされた人たちにそれらの事柄がおそらく知られるでしょう。

しかしながら、私はさらに次のことを指摘します:すなわち、神的なみ言葉の朗読が、たとえ曖昧に見えても、私たちの諸々の耳に流れ込むこと自体から、少なからざる利益が魂にもたらされるということです。実際、もしも次のことが諸国の人たちに信じられているとすれば:すなわち、ある特定の諸々の式文――それを生業とする人たちが諸々の呪文と呼ぶところの諸々の式文――を呟くとき、祈願する人たちさえ知らないある特定の諸々の名前を挙げても、ただ声の音だけから、蛇たちを気絶させ、あるいは、諸々の深い穴から引き出します;他方でしばしば、諸々の人間的な身体の中でも、諸々の腫瘍や諸々の炎症やその他のそれに類する諸々の症状を音声だけで抑えると言われ、さらに時として――ただしキリストの信仰が妨げなかった場合には――魂に感覚のある特定の麻痺を与えると言われます。それらのことが諸国の人たちによって信じられているとすれば、一切の呪文と式文よりもどれほど強力で効果的な呼称を、聖文書の諸々の言葉や諸々の任意の名前から引き出せると私たちは信じますか[1]

実際、不信仰な人たちの許で敵対的な諸々の力が、諸々の式文や諸々の呪文の中にあれこれの諸々の名前を聞くことによって現臨し、隷属を示し、あれこれの名前から自分が招かれていると感じるところの事柄に従事して、自分たち自身を託したところの務めと奉仕とに属する事柄をいわば返済します。それならば尚更のこと、私たちと共にいる天的な諸々の力と神のみ使いたち――実に主も、教会の小さき子らについて「彼らのみ使いは、主の顔を見ながら常に神のみ前に佇んでいる[2]」と言っています――は、喜んで、そして感謝しつつ、私たちの口から私たちが表明する()文書の諸々の言葉とそれらの諸々の名前の諸々の呼称を受け入れます――もしも私たちが、それらをある特定の諸々の呪文と諸々の式文のように常に表明するなら。なぜなら、たとえ私たちが口から表明する諸々の事柄を私たちが理解しなくても、私たちの傍にいるあれらの諸々の力は(それらを)理解し、そして、あたかもある特定の呪文によって招かれたかのように私たちの傍らに来て、助けをもたらすことを喜びます。

しかし、私たちの周囲にばかりでなく、私たちの内部にも、多くの神的な力が存在することを、預言者も示しています――彼が次のように言うとき:「私の魂よ、(あなたは)主を褒め称えよ。そして私の内的なすべてのものよ――すなわち、私の内部に存在するすべてのものよ――、(あなたは)彼の聖なる名前を(褒め称えよ)[3]」と。したがって、私の内部に多くの諸々の力が存在するのは事実です。それらの力には、私たちの諸々の魂や諸々の身体の配慮が委ねられています。ともかくそれらの力は、もしも聖なるものなら、諸々の()文書が私たちによって読まれると喜び、そして、私たちの世話に対してより強力になります――たとえ「私たちの理解が実りのなものであっても」。そのことも、次のように書かれているとおりです:「私たちが諸々の舌によって語り、そして、私たちの霊が祈っても、私たちの理解は実りのないものであるなら[4]」と。実に聖なる使徒がそのことを言ったのであり、そして、ある意味で驚くべき神秘を人間的な諸々の耳に表明しました――次のことがある時に起こり得ると言うことによって:すなわち、「私たちの中にいる霊は祈り、そして、私たちの理解は実りのまままであるとしても[5]」と。ですから、あなたは次のことを理解してください:すなわち、ある時に私たちの理解は実りのないものですが、しかし霊は、すなわち、私たちの魂の助けのために与えられた諸々の力は、聖なる文書の聴取から、まるで神的で理性的な諸々の食物からのように、養われ力づけられます[6]

なぜ私は、次のことを言うのでしょうか:すなわち、もしも私たちが、神的な文書の諸々の言葉を(私たちの)口から表明するなら、神的な諸々の力は私たちの中で養われ、持て成されると。私たちの主イエス・キリストご自身が、もしも私たちがそれら(の諸々の言葉)に時間を割き、その種の諸々の研究や諸々の修練に努力するのを見出すなら、私たちの中で養われ元気づけられるのをよしとして下さるばかりでなく、それらの持て成しが私たちの許で準備されているのを見出したなら、父をご自分と共に連れてきて下さいます。しかし、それらの事柄は相当に偉大であり、人間を超えているように見えますから、私の諸々の言葉ばかりでなく、救い主なる主ご自身の諸々の言葉によってもあなたに対して確証されるべきでしょう。主は次のことを言っています:「アーメン。私はあなた方に言います:私と父は来て、住まいを作り、彼の許で共に晩餐をする」と。(彼とは)誰でしょうか。彼とは実に、「彼の諸々の掟を守る」人です[7]

しかし、私たちが申したように、この種の諸々の省察から私たちは、私たちに対する諸々の力による諸々の協力と諸々の役務とを呼び起こすべきであるのと同じように、逆に、この種の諸々の言葉と諸々の名前との発声によって、諸々の邪悪な力からの諸々の罠と卑劣極まりない悪霊たちからの諸々の不意打ちを私たちは避けるべきです。たとえば、もしもあなた方の内の誰かがある時、諸々の呪文によって微睡まされた蛇が諸々の手の中で運ばれるのを見詰めたり、あるいは、諸々の呪いの力によって諸々の毒が麻痺させられたので、有害なことがまったくできなに蛇が諸々の穴から引き出されるのを見詰めたなら、同じように神的な朗読の力によっても、もしも私たちの内部に敵対的な力の蛇のようなものがあり、もしも(私たちの内部に私たちを)待ち伏せするために鎖蛇のようなものが潜んでいるなら、もしもあなたが忍耐強く我慢するなら、もしもあなたが、倦怠によって疲れ(聖文書の)聴聞を遠ざけないなら、()文書の諸々の式文と神的な言葉への粘り強い精励とによって、その蛇は追い出されます。



[1] Cf.C.Cels.,I,6; I,24-25; I,67; IV,33; VIII,37.

[2] Mt.18,10.

[3] Ps.102,1. C.G.ユングなら、これをどう読み解くだろうか。

[4] 1Co.14,14.

[5] 1Co.14,14.

[6] Cf.Com.Jn.XIII,33; De Oratione,27,2; 27,10, 27;11.

[7] Cf.Jn.14,23; Ap.3,20.