ですから、おお聞き手よ、もしもあなたがある時、あなたが理解できない律法の文書をあなたの諸々の耳の中に見るなら、そして、その意味があなたにとって曖昧に見えるなら、差し当たり、この第一の効用を受け取ってください:すなわち、ある特定の呪文によってであるかのように聴聞によってだけで、あなたに付き纏い、あなたを待ち構える諸々の有害な力の毒液が追い払われ、回避されます。ただあなたは、「耳の聞こえず、そして、自分たちの諸々の耳を閉ざし、呪文者たちの声と、賢者によって歌われる呪文の声を聴かない毒蛇[1]」のようにならないように注意してください。たとえば、賢者モーセによって唱えられ歌われる呪文、賢者ヌンの()イエスによって唱えられ歌われる呪文、知恵あるすべての預言者たちによって唱えられ歌われる呪文があります。それゆえ、私たちがそれらのことを言ったのは、私たちが諸々の()文書を聞いて理解しなくても嫌気を持たず、むしろ「信仰の通りに私たちに起こる[2]」ようになるためです。なぜなら私たちは、「一切の()文書は神的に霊感を受けて、有益である[3]」と信じているからです。ですからもしも、(一切の聖文書が)神的に霊感を受けたものなら、それは有益でもあります。たとえ私たちが(その)有益さを感じないとしても、私たちはそれが有益であると信じなければなりません。医者たちは、たとえば視覚の闇を散らすために、ある時はある食べ物を提供し、ある時はまた飲み物を与えることを常とします。しかし私たちは、その食べ物を食べているとき、あるいは、飲んでいるとき、それが有益で目のためになるとは感じません。しかし、一日、そしてもう一日、そして第三日が過ぎたなら、然るべき時の中である特定の隠れた諸々の過程を経て、その食べ物や飲み物の効力が視覚に関係づけられ、徐々に視覚を清めます。そして遂にその時に私たちは、その食べ物や飲み物が諸々の目に有益だったことを感じ始めます。しかし、身体の他の諸々の部分の中でも同じ諸々の事柄が起きるのが常です。ですからそのような仕方で、聖なる文書についても、たとえ私たちの感覚が目下のところ理解を獲得しないとしても、有益で魂に有用であることを信じなければなりません。なぜなら、私たちが申したように、私たち付き添う善き諸々の力も、それらの(聖文書の)諸々の言葉の中で力づけられ養われるからであり、敵対的な諸々の力も、それらの(諸々の言葉の)諸々の省察の中で麻痺され、回避されるからです。

 しかし、聞き手の人たちのある人は、おそらく次のことを言うでしょう:「あなたがそれらの事柄を言うのは、次の理由のためだ:すなわち、あなたが議論の役務から解放されるため、そして、それらの事柄の中で終わるため、そして、あなたが何らかの慰めを可能な諸々の事柄の中から提示しないようにするため、また、朗読された諸々の事柄を開封して、諸々の隠された秘密の事柄の説明から私たちが少なくとも幾らかの食物を摂るためにご自分の恵みを提供してくださるようにあなたが主に嘆願しないようにするためだ」と。私たちは、そのような理由からそれらの事柄を言ったのでもなく、(その)弁明をするためにそれらの事柄を表明したのでもありません。むしろ、聖なる諸々の文書の中に、たとえ説明がなくても読者に十分なある力が存在することを私たちが明示するためです。



[1] Ps.57,5-6.

[2] Cf.Mt.9,29.

[3] 2Tm.3,16.