そこで私たちは、聖なる文書を(聖なる文書)それ自身と突き合わせ、「諸々の霊的な事柄を諸々の霊的な事柄と比較して[1]」、次のことを探求しましょう:すなわち、ロバたちについて、それらの脚筋が切られたと書かれておらず、ミディアン人たちの諸々の略奪品や生き物たちが殺されたとも言われておらず、むしろイスラエル人たちの諸々の使用に役たったと言われいるのに対し、ロバたちではなく馬たち持つ者たちについて、主ご自身が命令し、「あなた方は彼らの馬たちの脚筋を切らねばならない」と言い、イエスも、「主から命令されたとおりに[2]」実行したのはどういうことかと(探求しましょう)。私たちは、それらのことが偶然に起きて、敵的な馬たちが滅ぼされ、ロバたちが保存されたと考えますか。そして、私たちは、神の諸々の命令の中で、何かしら偶然的な諸々の事柄が起きると、私たちは判断しますか。むしろ私たちが、それらの事柄の中で神秘的な文書は、何かしら神秘的な事柄を指示していると考える方がいっそう相応しいように見えますか。とにかく、イスラエルの子らは、馬たちを使用したと決して述べられていません。そして、律法は、馬たちついて何も命令せず、ロバたちについて命令しています[3]――まるで、人間的な諸々の労苦を助け、彼らの諸々の重荷を担うために実在するように見える動物たちであるかのように。他方、馬たちは、むしろ人間たちの滅びのため実在してるかのようです。実際、それは、それらによって諸々の戦いの中で行われていることです。それは、向こう見ずな動きをし、高慢の首を持つ動物として捉えられています。

ですから、ロバたちはしばしば()文書によって、諸国民の予型の中に置かれています。それは、ちょうど、ロバの上に座っている救い主が明示されていますが、しかし馬に座っているのが決して述べれられていないのと同じであります。また彼が、「雌ロバと雌ロバの子を解くために」弟子たちを遣わして、彼らに次のように言うときもそうです:「もしも誰かがあなた方に尋ねたなら、あなた方は、『主が必要としている』と言いなさい[4]」と。そして彼は、その上に座ってエルサレムに入ります。そして彼は、決して馬に座って入ったとは言われていません。それはかりか、彼に関する預言も、そのように彼がロバに乗ってエルサレムに来ると言って預言していました:「見よ、あなたの柔和な王が、雌ロバの頸木につながれた若い子供の上に座る王を。そして彼は、エフライムの諸々の戦車を絶やし、エルサレムから馬を絶つだろう[5]」と。ですからあなたは、預言の宣告に従って、ロバの上に座る方が、エフライムの諸々の戦車を絶やし、エルサレムから馬を絶つだろうということを見ます。ですから、とにかくロバたちは、私たちが述べたように、諸国民の中から信じる人たちの形象を保持しており、主は彼らの上に座ったと書かれていると、私には見えます[6]

他方、絶やされる馬たちと、諸々の戦車は、諸々の天の中に置かれていたが淫乱と高慢によって転落し、身を焦がして人間たちの娘たちを情欲することに自分たちを委ねた者たち、あるいは、「私は、諸々の雲の上に私の座を置く。そして、私はいと高き者に似たものになるだろう[7]」と言った人に従った者たちの形象を保持しています。それ故おそらく、預言者も、「救いのための偽りの馬[8]」と言ったのでしょう。また、悪霊たちを信頼していた者たちについて(預言者は)言っています:「彼らは諸々の戦車の中で、そして彼らは馬たちの中で(呼び求めるだろう)。しかし私たちは、私たちの主の名前の中で呼び求めるだろう[9]」と。実に(預言者は)、呼び求めることに関する限り、諸々の戦車と諸々の馬を神に突き合せませんでした。ともかくそれは、次のことを明示しています:すなわち、私たちが真の神を呼び求めるのと同じように、彼らも諸々の戦車と馬たちを、すなわち悪霊たち――イスラエルに対して戦争を行った諸国民は、悪霊たち――を呼び求めます。しかし、()文書は、エジプト人たちの馬たちにも言及しています。それらはまさに、いま滅ぼされることを(主が)命令している馬たちその者です。

それゆえ、次のことが理解されることが許されます:すなわち、ロバたちの予型の中で、信仰に至る諸国民たちが正当に留保されること、他方、諸々の馬と諸々の戦車の予型の中で、人間的な救いに対立し敵対する悪霊たちが正当に滅ぼされること、です。

そればかりか、もしも身体の諸々の情念、すなわち、欲望、好色や高慢と移り気――不幸な魂はそれらに騎乗するかのように乗り、諸々の絶壁へと運ばれます――が、今、諸々の馬と諸々の戦車だと言われ、まさにそれらの脚筋が神の命令によって切断されることが命令されていると、私たちが理解しても、その理解は、私たちの理拠に反することにはならないでしょう。実際、馬の脚筋は切断されます――諸々の断食と諸々の徹夜と一切の節制の打撃によって身体が卑下されるとき。そして、諸々の戦車は火によって焼き尽くされます――私たちの中で、次のことを言う主の言葉が成就されるとき:「私は土地の中に火を置くために来た。それがともされることをどれほど私が望んでいることか[10]」と。次のことを言っていた人たちは、その火によって自分たちが燃えていることを告白しました。彼らは言っていました:「彼が私たちに諸々の()文書を開示しているとき、私たちの心は私たちの中で燃えていなかったか[11]」と。ですからそれゆえ、もしも私たちが、私たちの身体の動きが馬勒をつけずに放任されることを許すなら、あるいは、節制の頸木によって肉の諸々の欲望と諸々の高慢な首を押さえつけないなら、「救いのための偽りの馬[12]」という言葉が言われます。

しかし今でも、もしもい人が、私たちが述べる諸々の事柄から、神の諸々の言葉によって刺激され突かれるなら、そして、昨日は馬のように欲望の中で熱狂し夢中になって振り回されていた人が、もしも、今日それらの事柄を聞いて悔い改め改心し、預言に従って「神の畏れによって貫かれて[13]」抑制され、罪から呼び戻され、その後に純粋で貞潔な生活を愛するなら、私たちはさらに「神のみ言葉の剣[14]」抜くことによって、「馬の脚筋を切断した」ように見られます。そしてむしろ、それによって神の命令が相応しく成就されます――人が、馬的な種類の諸々の生き物を敵たちの諸々の戦利品から奪い(それらの)脚筋を切断する場合よりも。

しかし、どのような人たちの諸々の馬の脚筋が切断されるのでしょうか。そのことを探求するのも、労苦に値します。ヤビンの諸々の馬の脚筋が切断されるべきだと、(聖文書は)言っています。ところでヤビンは、思慮や理解と解釈されるます。その戦車の車輪が切断されるべきところの思慮や理解とは何でしょうか。勿論、使徒は、その思慮について次のことを言っています:「肉の思慮は、神の敵である[15]」と。また、その理解について(彼は)、「(彼らは)肉の理解によって炎上している[16]」と言っています。他方ヤビンは、ハツォルの王です[17]――またハツォルは、宮廷と解釈されます。この(宮廷としての)ハツォルこそ、これらすべての諸々の王国の主権を獲得すると言われています――。ハツォルは、宮廷の中で支配する「この世の支配者[18]」、すなわち土地の上にいる「この世の支配者」、あるいはむしろ、肉の諸々の悪徳の中にいる「この世の支配者」と理解されます。しかしまた、私たちが彼らの意味力を、彼らの諸々の名前の解釈に従って既に上で説明したところすべての王たちの諸々の馬も、イエスによって殺害されると言われています。もしも私たちが指導者イエスの下で正しく戦うなら、私たちは私たち自身の中で彼らの諸々の悪徳を切り捨て、受け取った「霊的な剣[19]」によって、、諸々の悪徳のその一切の最悪の騎兵部隊の脚筋を切断しなければなりません。そればかりか私たちは、諸々の戦車を燃やさねばなりません。すなわち、高慢と自惚れの霊を私たちから切り離さなければなりません――それは私たちが、もはや「諸々の馬の中や諸々の武器の中で呼ばわるでなく、私たちの神なる主の名前の中で呼ばわる[20]」ためです。

しかし私たちは、どのようにして私たち自身の中で、「息をしている者が一人も放置されないようにしなさい[21]」と(イエスが)言っていることを果たすべきでしょうか。主の命令によって息することさえしないように命令される人は誰であるかが考察されねばなりません。たとえば、もしも怒りが私の心の中に立ち昇ったら、私は怒りの諸々の業を果たしません――不安によって妨げられたり、将来の裁きの畏れによって抑えられることによって。しかし、それだけでは十分でないと、(彼は)言います。あなたはむしろ、激怒の動きがあなたの中で場所を持たないように振る舞わねばなりません。実際もしも、魂が沸騰し、混乱させられるなら、たとえ(魂が)業を果たさなかったとしても、その混乱そのものが、指導者イエスの下で戦う者にとって不適切なものです。欲望の悪徳についても、悲しみやその他すべての悪徳についての、度な時用に考えられねばなりません。それらすべて(の悪徳)について、イエスの弟子は次のように振る舞うべきです:すなわち、それらのどれ一つでも、彼の心の中で決して息をしないように。おそらく、そのような悪徳の習慣や考えが僅かでも心の中に残されているなら、それは時間の進行とともに強力になり、少しずつ密かに諸々の力を獲得するでしょう。そして最終的にはそれは、私たち私たちの「嘔吐[22]」へと呼び戻すでしょう。そして、「そのような人間には、最後の諸々の事柄は以前の諸々の事柄より悪くなるだろう[23]」ということが起こるでしょう。それは、預言者が諸々の詩の中で予期し、忠告していることでした。預言者は次のことを言っています:「あなたの幼子たちを捕まえて、岩に投げつける者は幸い[24]」。あなたの幼子たちとは、すなわち、バビロニアの幼子たちで、私たちの混乱させ悩ませる「諸々の悪しき考え[25]」以外の何ものとしても理解されません。実際、バビロンはそのように解釈されます[26]。それらの諸々の考えは――それらがまだ小さいうちに、そして諸々の端緒を持っているうちに――捕まえられ、「キリストである岩[27]」に投げつけられねばなりません。そして、彼が命じている通り、私たちの中に「息をする者が何も居すわらないように」(彼らの)咽喉が切られねばなりません。ですから、あちらでは、バビロンの幼子たちを捕まえ岩に投げつけ、諸々の悪い考えを諸々の始めの中で直ちに殺すことが、ここでは幸いであるのと同じように[28]、こちらでも、私たちの中で異邦人的に息することのできるものが私たちの中に何も残されていなければ、幸いであり完全であると理解されねばなりません。



[1] 1Co.2,13.

[2] Jos.11,9.

[3] Ex.23,4 sv.

[4] Lc.19,30-31.

[5] Za.9.9-10; Mt.21,5.

[6] 『ヨハネによる福音注解』(X,28(18),Pr.,201)では、雌ロバは解放されるべき旧約の文字であり、子ロバは新約になぞらえられている。

[7] Is.14,13-14.

[8] Ps.32,17.

[9] Ps.19,8.

[10] Lc.12,49.

[11] Lc.24,32.

[12] Ps.32,17.

[13] Cf.Ps.118,120.

[14] Ep.6,17.

[15] Rm.8,7.

[16] Col.2,18.

[17] Jos.11,1.

[18] Jn.14,30.

[19] Ep.6,17.

[20] Ps.19,8.

[21] Jos.11,11.

[22] Pr.26,11.

[23] Lc.11,26.

[24] Ps.136,9.

[25] Mt.15,19.

[26] 同じ解釈が次の箇所にも見れられる:Hom.Jr.fragm.26 ; C.Celsum, VII,22.

[27] 1Co.10,4.

[28] Cf.Com.Ct.IV(B.,p.236,l.18).