ですから私たちは、何故にカレブは首都を受け取ったのか、しかも、約束の地の中で他のすべて(の諸々の町)の中で首都と名づけられている町、すなわち首都アナクを受け取ったのか討論しましょう[1]。アナクは、空虚な謙遜や空虚な応答と解釈されます。ですからカレブは、空虚な謙遜の首都を受け取りました。二種類の謙遜が存在することは確実です。一つ(の謙遜)は称賛に値するものです。それについて、救い主は次のことを言います:「あなた方は私から、私が柔和で心において謙遜であることを学びなさい。そうすればあなた方は、あなた方の諸々の魂のために安らぎを見出すでしょう[2]」と。そしてその謙遜について、次のことが言われています:「みずからを謙遜する人はみな高められるだろう[3]」と。また他の箇所で、「だからあなた方は、神の最強の手の下で謙遜しなさい[4]」と。他方で、()文書は(男女の)不法な結合について述べているような、罪人たちの非難すべき謙遜があります:「彼は彼女を謙遜させた[5]」とあります。これは、アムノンについて書かれたもので、彼は自分の妹を謙遜させました。ですから、罪に由来する空虚な謙遜があります。ですから、その空虚な謙遜の首都をカレブは奪い取り――あるいは絶滅し――、そして、空虚な謙虚さに息子たちだったアナクの三人の息子たちを絶滅しました。そして、それらを滅ぼすことによって、彼自身がその町に居住し、引き続く諸々の箇所の中に枯れている諸々の事柄を行います。

しかし、カレブが絶滅させた空虚な謙虚さのそれらの息子たちは誰でしょうか。先ず、シェシャイは[6]、「私の外」、すなわち、聖なるものの外と解釈されます。なぜなら空虚な謙遜ん息子は、聖なるものの外に、いやさらに神の外にあるからです。他方のアヒマンがいますが[7]、彼は、分別の外にいる私の兄弟と解釈されます。それは、あたかも分別のない兄弟と私たちが言うようなものです。実のところ、空虚な謙遜から生まれるすべての兄弟たちが、分別の外にもいることは確実です。第三にタルマイは[8]、転落や浮遊と解釈されます。それは、彼の中にいかなる安定もなく、むしろすべてのものが不安定で、真っ逆さまに落ち込むからです。

 ですから、彼れらアナクの三人の息子たちを、カレブは絶滅し殺害し、そして彼は、彼らの後でデビルの中に昇りました。デビルという名前は、以前は、諸々の文字の町でした[9]。デビルは、発話と解釈されます。しかし、デビルという名前は、以前は、諸々の文字の町でした。ですからあなたは、諸々の文字の町を、旧い契約の一切の道具として理解してください。すなわち、私たちが今、検討することに努めているこの文書が諸々の文字の町であると、私たちは理解しています。それは後に、デビルすなわち発話になります。実際、以前は諸々の文字の中にあり、文字に即して理解されていた諸々の事柄は、今、キリストの諸々の教会の中で、主が啓示することによって発話になりました――(主が啓示することによって)最初に聖なる使徒たちが、それらの事柄について語り、討論し、文字の表面を取り除き、そしてそれらにの事柄に関する霊的な発話を表明しました。しかしまた、諸教会の一人ひとりの教師たちが、律法の文字を教会的な発話と討論にしました。

 しかし、カレブ――彼の位格の中に私たちは、律法の力を認めました――が滅ぼしたアナクの三人の息子たちは誰でしょうか。空虚な謙遜は、この代のすべての詩人たちや哲学者たちが神性について理解した謙遜として受け取られなければなりません。なぜなら彼らが理解した諸々の事柄は低俗で神に相応しくないからです。実際、諸々の木や諸々の石を神々として建て増したり考えたりすることと同じほど、低俗なものが何かあるでしょうか、空虚に低俗なものが何かあるでしょうか。ですから、この空虚な謙遜の最初の息子は、「私の外」にあると言われる息子です。すなわち、彼らの最初の理解は、真理の外にあり、神の外にあります。他方、第二の(息子)アヒマンは、すなわち、「分別」のない兄弟です。実際、彼も、分別なしに担われる誤謬の兄弟であることは確実です。実際、私たちをお造りになった神を捨て置いて、私たちが作った神々に従うことと同じほど、分別のないものが何かあるでしょうか。第三の誤謬の理解は、タルマイです。それは、転落や浮遊です。実際、その誤謬の諸々の終局は、転落と黄泉の深淵へと向かいます。ですから律法は、異邦民のそれらの諸々の理解をアナク・古い誤謬の(三人の)息子たちとして切断します。律法は、いまだ文字に即してさえ、万物の創造者である「真の神[10]」を宣べ伝えています。



[1] Jos.15,14.

[2] Mt.11,29.

[3] Lc.14,11.

[4] 1P.5,6.

[5] 2S.13,14.

[6] Cf.Jos.15,14.

[7] Cf.Jos.15,14.

[8] Cf.Jos.15,14.

[9] Cf.Jos.15,15:「キルヤト・セフェル」(新共同訳)

[10] Jr.10,10.