第二十一講話

エルサレムからエブス人たちを散らすことができなかったユダの息子たちについて[1]

 

 ユダの息子たちは、エブス人たちをエルサレムから散らしたり殺害したりすることを望んでいましたが、「できませんでした。それゆえエブス人たちは、ユダの息子たちと共にエルサレムの中に今日に至るまで居住しています[2]」。

私たちは、文字から始めていますが、それらの事柄は文字に即して存立し得ると考えている人たちに、(聖文書が)「今日に至るまで」と言っていることが何であるかを問いたいです。なぜなら聖なる文書は、そのことによって代の永遠性を意味するために、その言葉を置いているからです。たとえば(聖文書は)、「あなた方は今日という日の中で――すなわち、代が存立する限り――主から退こうとしてはならない[3]」と言っています。ですから(それらの事柄は)、どのようにしてエブス人が、代が存立する限り、ユダの息子たちと共にエルサレムの中に居住するかを私に明示しています。なぜならユダの息子たち自身は、エルサレムの中に居住していないからです。それですから、エブス人たちがユダヤ人たちと共にエルサレムの中に居住することは、真実ではありえないでしょう。なぜなら後者の人たち自身はその中に(もはや)居住していないからです。

しかし私たちは、それらの事柄を霊的に理解しましょう――諸々の毒麦について次のことを言う福音のたとえ話を採用することによって:「あなた方は、両方が成長するのを許しなさい。それは、あなた方が諸々の毒麦を引き抜くことを望んだとき、それらと共に同時に小麦を引き抜くことがないようにするためである[4]」とあります。ですから、福音の中で諸々の毒麦が小麦と共に同時に成長することが許可されているのと同に仕方で、ここエルサレムの中にも、すなわち教会の中にも、ある特定のエブス人たちがいます。彼らは、卑しく堕落した生活を送っており、自分の信仰においても諸々の行動においても一切の振る舞いにおいても邪です。実際、教会が諸々の土地の中にある限り、澄んだ水のように浄化されることは不可能です――その中で不敬虔な人も罪人も居座っているのが見られず、その中にすべての聖なる人たちの至福な人しかおらず、彼らの中にいかなる罪の沁みもまったく見つけられなくなるような[5]。むしろ、諸々の毒麦について、「それは、あなた方が諸々の毒麦を引き抜くとき、同時にそれらと共に小麦まで引き抜くことがないようにするためである[6]」と言われているように、諸々の疑わしい罪や諸々の隠された罪が存在する人たちの上にもそのことが言われることができます。ただし私たちは、明白かつ明瞭に犯罪的である人たちについて、彼らは教会から追放されないと言いたくありません。

ですから次のことを言う()文書をあなたはお聞きください:「ユダの息子たちは、エブス人たちを散らすことができなかった。彼らは彼らと共にエルサレムの中に今日に至るまでエルサレムの中に居住してきた[7]」と。それゆえ私は、信心深いあなた方に次のことを祈願します:あなた方はあなた方の生活と暮らしを守って、何らかの事柄の中であなた方自身が躓きを被ったり、他の人たちに対して躓きを作らないようにして下さい;むしろあなたは、最高の熱意と最高の注意を払って、汚れた人が誰一人として、あなた方のこの聖なる集会の入らないようにしてください;エブス人の誰かがあなた方と一緒に居住しないようにして下さい。実際あなたは、()文書が次のことを言っているのを見ます:「イスラエルの子らは、エブス人たちをエルサレムから投げ出すことができなかった[8]」と。ところで、エブス人は、「踏み付け」と解釈されます。ですから、私たちを踏み付ける者たちを私たちが追い出すことができないとしても、少なくとも私たちが(追い出すことが)できる者たち、諸々の明白な罪を持つ人たちを私たちは追い出しましょう。なぜなら、罪が明晰でない場合は、私たちは教会から追い出すことができないからです。それは、私たちは諸々の毒麦を引き抜くことによって、それらと同時に小麦まで引き抜くことがないようにするためです。



[1] Cf.Jos.15,63.

[2] Jos.15,63.

[3] 1S.12,20; cf.He.3,7-13.

[4] Mt.13,29-30.

[5] Cf.Hom.Jr.15,3 : Hom.Lc.38.

[6] Mt.13,29.

[7] Jos.15,63.

[8] Jos.15,63.